2014年1月28日火曜日

立春の野に出でて若菜摘む頃、若菜は芹の一草粥

 太陰太陽暦の年は、立春前後の朔から。というわけで、立春前に元旦がやってくる年もあるのですが、立春を過ぎてからの朔で、新たな年がはじまることもあります。

 立春は年のはじまりの目安ではありますが、それは、節気暦(太陽暦)でのこと。なので、立春と、旧暦朔の元旦と、どちらが本当の正月かと聞かれることがあるのですが、どちらも年初ということにはなるでしょう。
 立春は、年の気が改まるというような言い方をしますし、元旦朔は、年が新たになる、そんな言い方をする人もいますが、まあ、いずれにしろ、ややこしいです。年初は二回あり、その片方が立春、もう片方が朔だ、ぐらいに覚えておくとよいのではないでしょうか。

 とにかく、立春の頃になれば、冬も終わり、春が来るであろう予感がそろそろ。
 実際、日出の時間が少し早くなってきますし、日没の時間が延びたことも実感するようになる時期です。植物は春の訪れの準備を始め、寒さの中でも木の芽が少し膨らんできているのがわかるでしょう。春の七草もようやく露地物でいただくことができそうです。

 旧暦一月七日というのは、立春前後と思っていればまちがいなく、万葉の頃、立春の野に出て、若菜を摘んで粥に入れて食べた、これが日本における七草粥の古い形のようです。若菜はおもに芹。宮中行事では、若菜摘は大切な行事でした。

 ※ 「君がため 春の野に出て 若菜摘む…」この歌は、愛しい人のために若菜を摘んでいるのではなく、大君(皇)のために宮中行事として若菜を摘んでいる歌ですが、ここでいう若菜とは、芹のことだったのではないかという説が有力です。

 そう、芹だけの一草粥でよかったのですね。

 その後、中国の暦が入ってきて、1月7日の「人日」という行事を行うようになるのですが、そのあたりで、七種類の菜を入れるようになっていったようです。七種類の穀物を入れた粥だった時代もあります。せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ」が春の七草。
 すずな(蕪)、すずしろ(大根)は、日本古来の植物ではなく、大陸から渡ってきた植物。それ以外は、野や道端に生えている草。

 大根は、芹とともに、雪をかぶっても生える青菜です。冬二重宝する野菜。だから大根の葉っぱと芹ぐらい入っていれば、二草粥ということで、いいのではないかと思えますが。、

 あとは、そのあたりに生えているはこべをちょいと摘んで。
 小松菜は、七草のメンバーではありませんが、まあ、入れてもいいのではないかな、と。しかし、ネギはダメです。あれは若菜じゃないからね。

 江戸時代には、町角に七草売りが出たという話が文献には書かれています。江戸の郊外で、はこべを摘んで、売りに来る、ちょっとお小遣い稼ぎのバイトです。「はこべら」は、どこにでも生える野草だったというわけで、この前、港区の公園の片隅に生えている緑のものをみましたら、なんだかはこべの葉っぱみたいで、ちょっと感動モノでありました。

 さて、江戸時代の七草の風習を紹介しましょう。(といっても、私は実際に見たことはないんですが、この風習は明治時代までは行われていたようで、祖母の話や、文献を織り交ぜると、たぶんこんなふうだったろう、ということ。)

 まず、七種類の菜を揃える。次に、台所用品を7つ並べる。まな板、包丁、菜箸(あるいは火箸)、桶、ひしゃく、しゃもじ。すりこぎ。…すりこぎは、もうあまり見かけなくなってしまいましたが、すり鉢とセットで使うもの。ささら、薪割り!などが加わる場合もあります。
 桶の上にまな板を載せ、まな板を、各種道具で叩きながら、お囃子を歌う、と文献にはあります。

「七草なずな 唐土の鳥が 日本の土地に渡らぬ先に 七草祝いを カチカチカチ」
 
 これはいったいどういう意味なのか? 
 一説には、唐土の鳥とは、春先に流行る伝染病を意味しており、病除けの歌であるといいます。渡り鳥が渡ってくる頃に流行る伝染病。春先のインフルエンザでしょうかね。

 また、古くは鳥追いの意味があったようです。
 野鳥は農耕の敵。植えた種を、片っ端から穿り返して食べてしまう、出たばかりの菜をつっついてしまう。
 農村では、台所道具ではなく、農耕作業の道具で、家の壁を叩きながら歌っていた地方もあったといいます。それが、いつしか台所道具になっていった、ということかも知れません。

 江戸のような都会では、鳥害はなかったでしょうが、きっと、鼠追いの意味が込められていたのではないだろうか、などと想像してみたりします。

 ・・・いや、鳥害、最近はあるんですよね。カラス、鳩。そう、立春過ぎると、鳥たちの繁殖期がはじまるのでした。                                  (秋月さやか)