2014年2月13日木曜日

「六韜」をお茶請けに、義仲殿とお茶する気分…二十一夜を偲びながら

 「六韜」は武経七書のひとつで、太公望ゆかりの兵法書。太公望が、文王とその子の武王、2代に教えた兵法のテキストである。
 文韜、武韜、竜韜、虎韜、豹韜、犬韜。の6巻から成る。…昔、私は「六韜」(りくとう)とは、六種類の餡子が入っているお菓子の名前に違いないと思いこんでいた…。白いんげん、黒ごま、抹茶、柚子、桜、栗きんとん! 
 しかし、「六餡」ではなく「六韜」なんです。が、「韜」とは、武器を入れる袋を意味する言葉だという。袋。となると、竜餡とか虎餡の入った最中のようなもの…を、やっぱり私は連想してしまうわけですが。

 などと言ったら、きっと、木曽義仲は大笑いするだろう。「そうか、犬餡があるなら、猫餡もあるよの、きっと、わはは!」と。
 とにかく。「六韜」は、兵法の基礎。武経七書のひとつ。武家はこれを覚えなくてはならず、「試験に出ますよ、これ」というわけですね。もちろん、義仲も、元服した頃から、覚明について武経七書を学んでいたはずで。
 
 
 義仲の父、義賢は、義朝(頼朝の父)の弟にあたる。だから、頼朝や義経と義仲は従兄弟同士なわけだ。しかし、義賢は、あろうことか、兄の義朝に討たれてしまう。実際に手を下したのは義朝の息子、頼朝や義経の兄にあたる義平。

 ああ~、歴史は、似たような名前の人がたくさん登場して、覚えにくいことはなはだしい。しかも、名前を間違えると大変なことになるのですよ。
 昔から、仲間内の争いが絶えない源一族。とはいえ、この同士討ちは、後白河法皇のさしがねであったらしい。後白河法皇は、日本史上、稀に見る悪人だと私は思う。同士討ちをさせれば、いずれその一族は滅ぶことを計算していたのだろう。
 
 木曽義仲、生年月日が不明。それは、母親の身分が低かったから。幼名は駒王丸。父の義賢が討たれた時、2歳。木曽の山中に逃亡し、中原兼遠の手によって育てられる。平家物語の中では、野卑で下品と描かれるが、髪麗しく、色白く、なかなかの豪傑美男子だったようである。たぶん、義経よりも、ず~っと美男だったと思われる。

 以仁王の令旨によって挙兵、叔父の行家と共に戦い、倶利伽羅峠で勝利して上洛。朝日将軍と称された。でも結局、後白河法皇とそりが合わなかった。政治も苦手だったようである。以仁王の遺児である北陸宮を次期天皇に、という願いは卜の結果、却下され、水島の戦いでは大敗北。ああ、きっと、義仲は、占いが大嫌いだったろうと思う。

 1184年旧一月十五日には自らを征東大将軍に任命させたものの、後白河法皇が呼び寄せた頼朝軍(源範頼・義経の軍勢)により、粟津の戦いで討ち死に。三十一歳。1184年旧暦一月二十一日のことだ。(グレゴリオ暦では3月5日)。新・平家物語では、陽が落ちる頃、矢に射られて、命を落としたと描かれる。戦いが終わって暗くなった野には、夜半過ぎ、ようやく下弦近くの月が昇り始めたに違いない。
 
 この年の旧暦元旦は、グレゴリオ暦の2/12ぐらい。立春、約1週間後の旧暦新年となる。宮中では新年の行事なども行われたようであったが、巷では、年明けの祝いなど無理だっただろう。都には食料が乏しかった。義仲の軍勢が、豪快に都の食料を食い尽くしてしまったから。
 義仲が自らを征東大将軍に任命させた一月十五日は、小豆入りの望粥ぐらいはふるまわれたのだろうか。粥卜は行われたのであろうか。とにかく、それから1週間後に、義仲は討たれるのである。
 
 
 さて、と。お茶です、そう。お茶の話。
 お茶が日本にやってきたのは805年で、貴族や僧侶しか飲めない高級品だった。眠気覚ましの薬のようなものだったらしい。当時のお茶は、粉茶を乾燥させてかちかちに固めたようなもので、これを湯に溶かして飲んでいたという。都に入った義仲は、当然、お茶を飲んだはず。茶の湯が確立されるのはもうしばらく先なので、茶筅や茶室はまだなく、窮屈なお点前もない! 
 
 お茶請けといえば…。真っ先に小豆が思い浮かぶものの、小豆餡の入った饅頭や羊羹は、鎌倉時代に入ってから作られるようになったものなので、まだ登場していない。が、麦粉と蜜を混ぜたような干菓子はあったのかも知れない。揚げ餅に蜜を絡めた「あられ」もきっとあったろう。揚げ菓子の代表は「ぶと」である。「ぶと」は、春日大社の神饌。米粉を蒸して餅とし、ごま油で揚げたもの。奈良時代から作られている菓子で、その製法は唐から渡ってきたという。
 新・平家物語の中で、客人のもてなしに登場したのは柿だが、干し柿は、昔も今も、貴重なお茶請け菓子の代表といっていいだろう。
 
 せめて、義仲が、後白河法皇とお茶でも楽しんでいれば、貴族社会に馴染むこともできたのではなかろうか。型破りな連歌のひとつぐらい、詠んでいれば…。

 いや、どんなに義仲が剛の者であっても、魑魅魍魎には勝てなかったということだ。都に潜む魑魅魍魎の正体は、権力欲であり特権階級の利権である。そのような欲望が取り付いて、人をも魑魅魍魎に変えてしまう。昔も今も、人の世は、何も変わってはいない。
 義仲が所望したという関白藤原基房の姫君(新・平家物語では冬姫という名で登場)もまた、ある意味、妖怪変化ではなかったのだろうか。かつて頼政が退治したという鵺の化身だったとしても、まったくおかしくはない話である。都はかように怖いところだ。   (秋月さやか)




2014年2月5日水曜日

ママ、僕はいったい誰の子なの? 清盛よ、アイデンティティ・クライシスを越えろ!

 平家物語は、正確には平家VS源氏物語と名付けるべきなのだろうが、主人公が清盛ですから、まあ、平家物語なのでしょうね。
 
 清盛の生家は貧しかった、というところから、吉川・新平家物語のお話ははじまる。貧乏な家には客の出入りもあまりなく、庭の手入れもされておらず、だから草がぼうぼうに生える。それを貧乏草と呼んでいたということで、なんと、吉川・新平家物語、第1話のタイトルは「貧乏草」! 
 
 
 しかし、ないものは金と地位だけではなかったのでした。第2話では、さらなる衝撃的の事実が語られるのであります。
 忠盛の妻、泰子は、白河の君の愛妾であったが、八坂の悪僧と密通したために、お宿下がりを申し渡され、忠盛の妻となった、その時、すでに清盛を身籠っていた、と。(注・これは、吉川・新平家物語の解釈です。)
 
 清盛、驚愕。父であると思っていた忠盛は父ではなかった。それどころか、自分が誰の子であるのか、それさえも判然としない。白河の君の御落胤か?それとも、八坂の悪僧の子か? アイデンティティ・クライシス。ママ、僕、誰の子なの? と、母の泰子に問い詰めるも、泰子、笑って答えず。

 清盛は母親の泰子を女狐とののしり、そして泰子は家を出て行く。はい、家庭崩壊です。金がない、地位がない、そして、家庭崩壊。とまあ、新・平家物語は、そんなめちゃくちゃな状態からスタートするのです。大河ドラマの画面が埃っぽいとか、見え難いとか、なんかそんな話もあったようですが、そんな生易しいお話ではありませんよ。(注・私はまだ観ていません。)
 
 清盛の出自についてですが、歴史的に、母親も生年月日も判然としません。清盛の命式とかホロスコープを作成しようとして調べた方もいるでしょうが、わからなかったはずです。資料がないんですから。
 これは、清盛の生母が、身分の高い女性ではなかった、ということを物語っています。歴史には、祇園女御(白河法皇の愛妾)の妹、あるいは侍女が清盛の母であるという説が有力で、生母は清盛が2歳ぐらいの時に亡くなっている可能性が高い、というあたりでしょう。そして、当時から、清盛の白河法皇御落胤説はあったようです。
 
 清盛の父の忠盛はというと、とにかく子沢山。清盛の母を含めても、おそらく、3人ぐらいの女性を妻としているようです。歴史的に、そのあたりが判然としないというのは、やはり、貧しい生活に嫌気がさして、妻が家を出て行ってしまったのか、それとも、当時の家族関係とは、まあ、そんなものだったのか。
 
 
 とにかく、吉川・新平家物語によれば…。
 父が遺伝子上の父ではない、とわかっても、「父上、わたくしの父上」と、清盛は忠盛に呼びかけ、「おお、父と呼んでくれるか!」と、忠盛、涙。親子が泣きながら手を取り合う、という筋書き。おおお、泣けますね、これは。
 
 おっとこれ、平安時代末期のお話なんですよね。今なら、間違いなく、遺伝子検査対象でしょうか。まあ、白河の君のスキャンダルは、日常茶飯事のことなので、特に問題にはならないとしても、です。
 
 さて、清盛、旧暦十二月、平治の乱を熊野で知り、都へ戻ることを決意。
 そして熊野別当から手向けにと渡された蜜柑(非時香実、ひじくのかぐのみ)を手に取る。蜜柑の中の種は、地上にばら撒かれれば、芽が出る。芽が出るかでないかは、その種次第。どの蜜柑の種だったかなどと問われるわけもなく、そんなことに囚われる必要もない。それは天の意思のようなものであって、人が決めるわけではない。己が誰の子であっても、自分は自分である、と決意して、都に向かう場面が描かれるのでした。
 そう、人の出自とは遺伝子だけで決まるわけではありません。遺伝子はもちろん大切ですが…。

参考文献:新平家物語

※ 写真は、神奈川、下曽我地域の梅畑にての風景。蜜柑畑もあります。