2016年8月11日木曜日

狐の修行僧は上方からやってきたベジタリアンで油揚が大好物

油揚は精進料理だった

油揚は薄切り豆腐を油で揚げた加工食品で、本来の名前は「油揚豆腐」という。
 水切りした豆腐を油で揚げ、表面に揚皮を作ったもの。ちなみにこの「油揚」には、豆腐をそのまま揚げる「厚揚」と、豆腐を薄切りにした「薄揚」があるが、薄揚をさらに高温の油でもう一度揚げると、揚皮の間に空洞ができる。これが薄揚の特徴でもあり、現在一般的に「油揚」と呼ばれている食品のこと。つまり、現在、一般に売られている「油揚」は、正式には「薄揚油揚豆腐」なのかと。
 
 豆腐は殺生を禁じられた寺院の修行僧が食べていた食品で、平安時代末期から作られており、室町時代に入って広く普及。
 優れた植物性蛋白質食品ではあるが、しかし豆腐ばかりじゃ飽きちゃうよということで、いろいろなアレンジが考えだされる。
 「油揚豆腐」もその1つで、油で揚げた豆腐が、肉や魚の代わりとして精進料理にも使用された。たとえば江戸時代に編纂された豆腐百珍の中の「鮎もどき」という料理は、棒状に切った豆腐を油で揚げて蓼酢をかけたもの。つまり細長い揚げ豆腐を鮎に見立てろということで、これはかなり想像力の必要な料理だったのではないかと思われるわけですが…。
 鮎の代わりになるかどうかという点については追及しないでおくとしても、「油揚豆腐」そのものは美味しい。江戸時代に入ってそれまで高級だった油が菜種油などの普及で廉価になったことで、油揚はさらに一般に普及し、そして庶民に人気の食材となっていった。
 焼いて大根おろしとぽんず醤油を添えたり、出汁で煮つけて唐辛子を振ったり、手軽に一品作れるのもありがたい。というわけで、我が家の冷蔵には安売り日にまとめ買いした油揚が大量に入っております。別に我が家はベジタリアンではありませんけれど。 
 

獣は油揚を食べるのか?

狐は油のにおいにつられて油揚を獲りに来るのだと、明治生まれの祖母は言っていた。狐は雑食性じゃないのに、まさか油揚なんて?と私が首を傾げたら、いやいや、本当に祠の前の油揚をくわえて立ち去ったのをみたことがあるんだから、と言い張る。犬か猫を見間違えたのではないかと思うのだが、それとも人里の狐は油揚の味を覚えてしまったということなのか。狐に供えたはずの油揚を、お腹をすかせた猫がかっさらっていくなど、農村の片隅では時折見られた風景に違いない。
 それどころか、鳶が油揚を攫って行くという物騒な話も日常茶飯事で起こっていたようである。文京区の富坂はかつては「鳶坂」と呼ばれていたが、それは鳶に油揚を攫われる名所であったためなのだとか。
 
 さて、狐や狢などの小動物を、鼠を捕獲してくれる稲作の守護者として祀るという風習が日本では古くからあった。狐が住む洞穴、こんもりした雑木林のあたりなどに祠が祀られていたりするのがそれである。
 ちょっと待った~! 稲荷神は宇迦之御魂大神(うかのみたまおおかみ)、もしくは豊宇気毘売命(とようけびめ)、(その他省略)の穀物神であって、狐なんぞを祀ったものではなかろう、というお叱りを受けることもあるが、宇迦之御魂大神(うかのみたまおおかみ)、(その他省略)などの穀物神は、古事記の神道系の話でしょう?
 古い時代に、鼠をとってくれる小動物の塚を祀っていたとしても、それほど不思議はない。鼠はとって欲しい。それには鼠の天敵を祀ってしまうのがよいと考えるのは自然な流れであるはずだからだ。ただし、油揚は昔からあった食品ではないため、古い時代のお供えは油揚ではなく、では何を供えていたのかというと…一説には「鼠を供えていた」とかいう記述もあるのですが、それはちょっと勘弁していただきたいものであります。

澤蔵司稲荷と油揚 

というわけで、「稲荷蕎麦」で有名な文京区の伝通院近くの澤蔵司稲荷(たくぞうすいなり)について書きましょう。澤蔵司稲荷は、おやまあここが都内なんでしょうか、というぐらい緑の多い、まるで異界に迷い込んだみたいなところ。
 これは、江戸時代初期、伝通院で仏典を学んでいた澤蔵司という僧の正体が、なんと狐だったというお話。

 伝通院門前の蕎麦屋が、店を閉めてから売り上げを数えていると、木の葉が混じっていることに気づく。注意していると、澤蔵司が蕎麦を買いに来た日には、木の葉が混じっている。そこで澤蔵司の後をつけていくと、伝通院近くのうっそうとした雑木林の中に消えていき、林の中には蕎麦を包んだ皮が散らばっていた、ということである。人間に化けていることを感づかれた狐は、伝通院の学寮長であった覚山上人に「私は狐である」と、まさかのカミングアウトをして姿を消してしまった。
 
 この話には別説もあって、伝通院の学寮長であった覚山上人は、京都からの旅路で道連れになった沢蔵司という青年を気に入り、入寮させる。彼は成績優秀で、入寮して3年、覚山上人の夢枕にたつ。「我は千代田城内の稲荷大明神であり、かねて勉強をしたいと思っていた長年の希望をここに達した。これより元の神に戻るが、当山(伝通院)を守護して恩に報いる。」と、かなりの上から目線で告げて(神だからしかたないか)、暁の雲に隠れたという言い伝え。あるいは正体を明かしたのは元和6庚申年5月7日の夜で、当時の学寮長は極山和尚であった、という説など。
 いずれにせよ、この沢蔵司が油揚を入れた蕎麦が大好物だったということから、稲荷神社に油揚を供えるようになったのだとか。まあ、正体が狐だろうがなんだろうが、修行僧の身ではベジタリアンになるしかないわけで、実際、油揚はベジタリアンにとってかなりありがたい蛋白質補給食品であることは確かでしょう。
 
 がしかし。江戸城内に稲荷神社なんてあるのか?
 と思って調べてみたら、かつてはあったのだとか。
 室町時代中期、太田道灌の娘が天然痘(疱瘡)を患ったことから京都の一口稲荷神社(いもあらいいなり)を勧請。ただしこの一口稲荷(いもあらいいなり)の「いも」とは、サトイモのことではなく、疱瘡のことで、疱瘡の穢れを洗い流す神社であったようです。この一口稲荷は、かつて京都の巨椋池(おぐらいけ)にあったようですが、現在はありません。巨椋池は伏見城築城に伴って埋め立てられてしまったため。
 そして徳川家康の江戸入府後、慶長11年(1606年)に江戸城の改築により、城外鬼門にあたる神田川の岸辺に遷座。これは現在のお茶の水界隈で、JRの線路脇。これが駿河台の「太田姫稲荷神社」の起源。
 つまり、沢蔵司のお話は、江戸城内に祀られていた一口稲荷が江戸城外へと遷座させられた後のお話で、さらには京都から江戸へと政治の中心が移って行った時期の噂話であるということでしょう。
 澤蔵司は、かつて京都巨椋池にあった神社ゆかりの狐、夢枕に立ったのが旧暦5月7日。5月7日といえば、慶長19年の大坂の夏の陣の最終日。京都から江戸にやってきた稲荷狐が、滅亡した豊臣家の縁日に伝通院の守護を約束するという、まあ、そんなお話であるわけです。
 
 ところで、もともとは上方の寺院などで作られていたと考えられる油揚は、菜種油などの普及に伴って江戸の町で大人気になったわけですが、さらには江戸初期、庶民の間で大流行したものがもうひとつ。それは蕎麦! その2つを組み合わせた「油揚蕎麦」は、当時の人気料理最先端であったでしょう。となると油揚蕎麦に「稲荷蕎麦」とネーミングし、京都巨椋池ゆかりの狐が化けた沢蔵司のお話を広めるという、これは新たな人気料理の宣伝作戦だったのではなかろうか、とも思えるわけですが。
   (占術研究家 秋月さやか)

※写真は油揚。油揚を裏返しにし、うなぎのたれを絡めてフライパンで焼けば、あ~ら、偽鰻に化けます! ぜひやってみてください。美味しいから。鰻資源の保護も兼ねて。