2013年10月30日水曜日

金砂郷の山中、ヒデヨシは猿に酒を振舞われ、感涙に咽ぶ

 秋の野山にいろいろな木の実。たわわに実る、つややかな色。
 猿は、その木の実を集めて木の洞に溜め込む。食べるために貯蔵しておくのだが、そのままほったらかしにしているうちに、木の実が醗酵して酒になるという。これが猿酒。山中で偶然発見されることがあると言い伝えられている、幻の酒である。が、猿は頭がいい。猿酒が美味いとなれば、木の実をせっせと木の洞に溜め込んで、酒にするかも知れない。

 さて、時は1180年、旧暦十一月半ば。たぶん太陽暦では12月に入っていたのだろう。場所は金砂郷の山中。(現・茨城県北部)。
 すでに紅葉は散り、寂しい岩肌が目立つ冬の景色。袋田の滝はまだ凍ってはいないが、下流の岸辺にはすでに薄氷が張り始めていたに違いない。
 
「頼朝、許すまじっ!…ううっ、うっ、うっ…;;」
「ウキキッ、ヒデヨシ様、泣いちゃいけません、男の子でしょ!キキッ」
「う・・・すまん、つい…ぐすっ…」
「キキッ、一杯呑んで、景気つけてくださいっ!ほら、ぐっと!ウキーッ!」
「かたじけない、猿殿!」
「ムキキ、マツタケが焼けましたよ!キキッ、いい匂い!」
「う、うっ、美味い、美味いぞ、ぐすっ…。;;うぇ~ん…う、美味いっ!」
 
 焚き火の側で泣いているのはヒデヨシである。ただしヒデヨシといっても、秀吉ではない。もちろん、アタゴオルのヒデヨシでもない。佐竹秀義、佐竹のヒデヨシ様のことである。そして、ヒデヨシに酒を勧めているのは猿!

 佐竹ヒデヨシは、金砂城の戦いで、源頼朝に敗北。わずか数名の供のみで、金砂郷の山中を敗走中。冬の山中、食べ物などなく、いずれ餓死か凍死だろうと思われていたらしいのだが…。が、なんと、佐竹ヒデヨシは逃げ延びる。伝承によれば、ヒデヨシを慕った猿たちが、食べ物を差し出したというのである。
 つまり、佐竹ヒデヨシは、猿に食べ物を恵んでもらった、ということになっているのですね。伝承には食べ物を恵んでもらったとしか書いてありませんが、きっと、酒も焚き火も温泉もあったのではないかしら、と思うわけです。

 焚き火を前に「…猿に何言ってもわからない」とつぶやく缶コーヒーのCMがありましたが、佐竹ヒデヨシは、話せる猿と杯を酌み交わしつつ、1180年の冬を耐え忍んだのでありま~す。
 
 しかしこの伝承、たぶん、食べ物を恵んでくれたのは猿ではないと思われます。そう、村人です。どう考えても、村人。が、下手に敗軍の将をかばい立てなどしたら、村人も罪に問われてしまう。佐竹ヒデヨシは、それを考え、「猿に食べ物を恵んでもらったのじゃ」と語ったのではないでしょうか。それなら、万が一、頼朝軍に捕まっても、村人に罪は及ばず。


2013年10月28日月曜日

夢の噂は密やかに、都人の間を羽ばたく 重盛の夢、揚羽蝶の夢

 平家の家紋、揚羽蝶。蝶がさなぎから孵化する、その変容の力、再生能力にあやかったとされます。
 さらに、蝶といえば、現実と幻、あの世とこの世を行き来する力を持った生き物。現世の栄華だけでなく、極楽往生を願った清盛には、いかにもふさわしい紋のように思えます。
 
 さなぎは眠っているのでしょうか。眠りながら夢をみているのでしょうか。たしかに、さなぎから抜け出る蝶は、目覚めたかのようです。が、羽を持って飛び回る蝶もまた、まるで夢の中を飛び回っているように見えるのです。
 
 さて、夢の話をしましょう。平重盛が病を得た頃、都人たちの間に、ある噂が囁かれるようになったといいます。それは、重盛の夢の話です。
「伊豆の明神に詣でたところ、門の脇に生々しい坊主首がさらされているので誰の首かと訊ねると、あれは前の太政入道殿(清盛)の御首にて候、と僧が答えた」
 しかもそのような恐ろしげな夢を、重盛だけでなく、同じ夜に、家臣の妹尾兼康もみた、というのです。重盛が生きていた間のことですから、当然、清盛もまだ存命です。
 
 これは、「2人同夢」です。2人同夢は、古くから、神仏の告げる夢であり、正夢となると信じられていました。夢は、本来、プライベートなもの。しかし、2人以上の人が同じ夢をみるとしたら、それは神仏からの公式発表であると考えられました。公式発表だからこそ、ひとりだけではなく、2人以上の人がみることができるというわけです。

「恐ろしい話ではないか、小松殿(重盛)と家臣が同じ夢をみたそうな、その夢というのが…」と都人たちが囁きあったというわけなのですが…。
 しかし、考えてもみてください。もしも重盛が本当にそんな夢をみてしまったとしたら、隠すと思いませんか? まあ、家臣と陰陽師には打ち明けるでしょうか。陰陽師は職務上の守秘義務があるので、どう考えても漏れるわけなどないのですが…。

 と考えてみると、これは人々の願望として生み出された噂話だったと考えるのが自然です。実際に重盛がそのような夢をみたわけではないのでしょう。誰が言い出したのかはわかりませんが、そうなってくれたらいいなあ、という民衆の願いが、夢の噂になって流布していったのです。
 「2人同夢」は叶う、と、人々が信じたことにより、それは、さらに実現に向かいやすくなったのではないでしょうか。つまり、これは都人たちが、夢の噂で世の中を操作しようとした一種の呪術なのかも知れない、という気がします。ドリカム平家物語バージョン。

※ 参考文献「新・平家物語2」


2013年10月19日土曜日

朝日将軍、義仲、日蝕(エクリプス)に倒れる

 歴史が動く時というのは、いきなりらしい。旧暦八月十七日、三島大社の大祭からわずか二十日後、旧暦九月七日、木曽義仲旗揚げ。

 木曽義仲は、平家物語の中ではさんざんに書かれていますが…。
 子供の頃から狼を一人で退治する剛の者、都からやってきた僧に学問を習い、地元の有力者の後ろ盾もいるという、かなり毛並みの良い人物なのです。四天王と呼ばれた配下と巴御前を従え、鬼神のごとく暴れまくったサムライヒーローであることは間違いありません。

 (吉川英治「新・平家物語」では、正妻の巴御前の他に、葵御前という美女も登場します。2人が義仲を愛し、女武者として命をかけて戦うという、男なら鼻血が出そうなストーリーになっているのです。はぁあ~。私は読んでいて、ため息が出ます。)

 さて、1183年七月、平家を都から追い出したのは義仲です。義仲は、京に入り、朝日将軍と自らを称しました。
 そんな素晴らしい義仲が、なぜ敗れたのか。その原因は幾つかありますが、まず、コンプレックスがなかったことだろうと私は思います。倶利伽羅峠に勝利し、それこそ破竹の勢い。自信満々で政治にばんばん口出し、後白河法皇に、ウザイ、と嫌われたのです。
 
 そしてもうひとつの要因は、日蝕(エクリプス)。時は閏十月朔(1183年、11月24日)、水島の合戦。(瀬戸内海、現在の倉敷市付近)。
 合戦の最中に、金環日蝕が起こったのです。源氏方は大混乱。義仲は朝日将軍、太陽の申し子、いわばアポロンです。そのアポロンの戦いで、あろうことか太陽が欠けるなんて! 
 
 が、平家方は、この日蝕をあらかじめ知っていたといいます。なぜなら昔から蝕の予言は、政治的に重要だったからです。蝕が起こると、御所の行事はすべて中止なのでございま~す。
 暦の計算は、陰陽師の仕事。陰陽師は御所に仕えています。都の貴族たちは、占いを気にし、毎朝起きると、すぐに暦を見たといいます。凶方角があれば、方違えをしなくてはなりません。お日柄によって、やるべきこと、やってはいけないことなどもあり、ほんに忙しいことよのう。オホホホッ!
 暦を使っていれば、日蝕が朔(新月)に起こることぐらいも、まあ知っているのでしょう。逆に、日蝕が起こる可能性を知っていて、戦いを仕掛けたのではないかという推測さえも成り立つのです。
 
 しかし、義仲は暦など気にもしていなかったようです。興味があるのは、月の巡り。闇夜になれば闇討ちを、満月の晩には夜中の行軍も可能、といったあたりでしょうか。あとは、戦いの勝敗は天気で決まるので、風や雲を読むことは重視していたようですが・・・。
 暦占などはまったく信じてはいなかったはずです。が、その義仲が欠けていく太陽に驚き、源氏の軍勢は、士気を失って総崩れになるのです。

※ 2012年の日蝕です。日蝕ラインは、東京、箱根、駿河。江戸が築き上げてきた日本文化のサイクルにおけるひとつの終焉を意味するものかも知れません。

妖怪は闇の中より生まれ出る、鵺(ぬえ)の鳴く夜は、源三位頼政の物語

 以仁王のクーデターの話となれば、源三位頼政です。

 帝のおかげんが悪くなり、魔物に憑かれているのではないか、ということになります。頼政が御所を警備していると、丑寅の方角から黒雲がわきおこり、その中から魔物登場!
 顔が猿、胴体が狸、手足が虎、尾が蛇というキマイラ、鵺(ぬえ)です。そして頼政の放った矢により、鵺は退治されるという筋書き。
 が、つまり、この鵺ってムササビではないでしょうかね。ムササビは、木の洞に巣を作りますが、屋根裏などに住み着くこともあるのです。
 
 知人の喫茶店の庭にムササビの住んでいる木があります。昼間は寝ていますからまったく出てきません。日没30分後ぐらいに滑空を開始するというので、見に行きました。暗闇の中で、目が2つ、赤く光っていましたが、暗くなっていたので、滑空の姿は撮れませんでした。
 夜、木立の間をばさばさっ、と飛ぶ音が聞こえることもあり、まあ、それはそれで不気味ではあるのですが、狼や熊のように人を襲うというわけではありません。
 
 一般に鵺の鳴き声、と言われているものは、とらつぐみという鳥です。深夜、ピー、という笛の音が響くように聞こえてきます。ピー、… ピー、… ピー、…。音色の異なる2羽の鳥が、鳴き交わしているので、交互に、異なる方向から音が聞こえてくるのです。鳥ですから、音はしだいに移動していきますし、山の中では音が木に反射して、どちらから聞こえてくるのか、よくわからなくなってきます。だから、音を追って行くうちに山中深く入り込んでしまうといいます。

 姿がキマイラ、どこで鳴いているのかわからない。となれば、これはまさに夜の闇が生み出した怪物でしょう。
 ただし、それは、山中の闇ではありません。都に渦巻いている怨念の闇です。歴代、帝や貴族たちの不安が、得体の知れない妖怪を生み出してしまったということでしょう。
 
 吉川英治「新・平家物語」では、「源氏でありながら、平家方についている自分(頼政)も鵺のような存在である」と、頼政自身に、自嘲気味に語らせているのですが、都人として、武士としての宿命ゆえに、鵺を退治しなくてはならなかった頼政の立場というものもあります。
 
 能の「鵺」は、源三位頼政に退治された鵺が化けて出る筋書きです。鵺からしてみれば、「源三位頼政という武士に殺された、やれ口惜しや」というところでしょう。人々は、退治した鵺の祟りを恐れ、体を切り刻んで笹船に乗せて流した後、鵺塚を建てたといいます。

※ ムササビの住んでいる木。昼間なので、何も見えませんが、中に住んでいるのです。


2013年10月18日金曜日

北条時政、江ノ島で龍女(リリス)と出会う。あたかも浦島太郎のごとし

 最近、パキスタンの沖合いに、地震島があらわれたといいます。地殻変動が激しい場所では、このようなことがよく起こります。江ノ島も、かつて、海中から隆起してあらわれた島なのです。
 突然、海上に島が姿をあらわせば、これまで海の底には、このような場所(聖域)があったのだろう、ということになります。海中の小島は、まるで城のようにも見えるでしょう。江ノ島を眺めていると、なるほど竜宮城伝説はそのようにして生まれたのだろう、とロマンをかきたてられます。

 江ノ島は、島全体が聖域でした。古くは役小角がここで修行したという伝説もあります。

 平安時代には、夢籠が盛んになりました。これは、聖域に籠もって、神仏のお告げを聞くことです。で、北条時政です。北条政子の父。時政は若い頃、江ノ島に夢籠したという話が伝わっています。
 何夜かを過ごし(たぶん、念仏を詠んだり、瞑想したりしながら)、、満願の夜に大蛇(龍女)があらわれたといいます。つまりは夢の中にその姿を拝んだのでしょう。そして大蛇は子孫繁栄を約束するのですが、もしも人の道に外れることをしたなら繁栄はたちどころに終わるであろうと告げて、姿を消します。大蛇が去った後に鱗が3枚残っていたことから、北条の家紋をミツウロコに改めたということです。

 実態としての龍女があらわれたというわけではないでしょう。龍女は乙姫様であり、つまりは夢魔です。リリスは、上半身女性、下半身蛇。大蛇の化身として旧約聖書の異本に登場しています。

 竜宮城にいた3年間に地上で七百年がたっていたとか、3日間いただけなのに地上では何十年も時が過ぎていたとか、時間軸が異なっているのですが、これはたぶん、数日間、聖域(江ノ島)に籠もっているうちに、潮の満ち干によって、何回も砂州があらわれたことを意味しているのかも知れません。
 つまり、もともと、聖域での時間の流れ方は、異なっている、「非時」という了解の上です。
 島に渡れるのは、潮が引いて砂洲があらわれた時だけですが、新月満月前後には、1日2回、砂洲があらわれます。砂洲があらわれる周期を、特殊な時間単位になぞらえていたのではないか、とも考えられるのです。
 
 さて、昔の江ノ島には、橋は架かっていませんでした。砂洲があらわれた時だけ、島に渡ることができた、特別な聖域だったのですから。しかし、現代の江ノ島には、橋が架かってしまいました。そして他と同じ時間が流れるようになったのです。だから、現代人が江ノ島で、時を超える夢を見ることはもうないのでしょう。

※ 写真は江之浦近くの根府川から海上の虹を写す



君よ知るや都の蜜柑、帰化人から都人へ、都人から地方へと蜜柑は広まった

 伊豆、神奈川は蜜柑の産地。私、個人的に伊豆、神奈川の蜜柑が贔屓なのです。しかも湯河原は石澤商店、蜜柑はもちろん、レモン、オレンジ各種、柚子、橙…。さまざまな柑橘類が揃っているお店です。

 なぜ伊豆、神奈川で蜜柑がたくさん栽培されているのか。まず気候があっていたということ。暖かく日当たりが良い。でもそれだけではなく、古来から都との行き来が盛んだったからでしょう。つまり、古くから蜜柑の種が持ち込まれたということです。

 相模国の産物として、橘の実があったと古文献に記されています。神奈川には橘という地名があるのです。1号線、西湘バイパス橘インター。これがヤマトタチバナだとしても、もともとは西のほうにしかなかったものなので、あきらかに都を経由して持ち込まれたはずです。
 万葉人はおおらかなので、言葉がアバウトです。橘といっても、それは柚子や蜜柑、つまり橘の仲間がすべて含まれていたに違いありません。
 
 柑橘は南の産物ですが、では北限はどこか。一般には神奈川山北町あたりですが、しかし、私は、もっと北限を知っています。
 それは筑波山の麓。なぜ筑波山の麓で蜜柑が…といえば、筑波山の麓は古来より、都との行き来が盛んだった土地なのです。都から持ち込まれ、大切に栽培されていたのでしょう。商業用として出荷できるほどは採れないけれど、言い伝えを細々と守るように、観光農園がぽつんとあったと記憶しています。
 
 温州蜜柑は、三国志では曹操の好物として登場し、左慈仙人が、蜜柑の中身を消して皮だけにしてしまった、というあのエピソードで有名。貴重な果物として、帰化人によって日本へと渡ってきたと考えられます。

 ところで、666年に、高麗国使節としてやってきた高麗王若光(こまのこきし じゃっこう)は、祖国が新羅によって滅ぼされたため、帰国の機会を失い、帰化人となります。
 大磯海岸に船をつけて相模に入ったという説があり、大磯海岸は、かつて「もろこしが原」と呼ばれていたといいます。となると、蜜柑は、高麗国の使節によって、大量に持ち込まれたのではないだろうか、などという想像も浮かんでくるわけです。


 北条記には、伊豆山権現(走湯山)の由緒についてこう記されています。「高麗国より、神功皇后の御船に召されてやってきた(帰化人が)相模国の高麗寺山に入り、その後、仙人が走湯山へ参詣し、移居」。これは、修験道に帰化人の影響があったということです。そして、伊豆権現は、北条家、源頼朝との縁も深い場所です。頼朝の旗揚げの時、北条政子は伊豆権現に身を寄せていました。
 
 頼朝が真鶴から船を出したのは旧八月の終り。そして安房の国についたのが旧九月初。伊豆では極早生の蜜柑が実り始めた頃、海が見える丘に、蜜柑の香りが漂い始めていたのでしょう。

※ 陽光の剣、高麗王若光物語はぜひ読んでみたいと思います。


非時香菓(ひじのかぐのみ)は、この世の欝を、時を忘れさせる黄金の果実

 伊豆近辺は蜜柑の産地。伊豆の海、ふりそそぐ太陽の陽射しを浴びながら輝くオレンジ、レモン。思わず、「オーソレミーオー、今夜はイタリア~ン」と歌っちゃおうかな!
 
 オレンジ、レモンは、蜜柑、柚子と同じように中国原産で、その種子が鳥に運ばれて、地中海にまで広がったのだという。
 日本原産の柑橘類としては橘(ヤマトタチバナ)と辞典には書かれている。日本原産とはいうけれど、これは常世の国から持ち帰った霊薬「非時香菓(ひじのかぐのみ)」という伝説があるから、たぶん、南の地から渡ってきたものなのではないだろうか。それにしても、非時(ひじ)とはどういう意味なのだろう。
 
 さて、私は、極早生の蜜柑が大好物なのですよ。10月に入ると、スタンバイ。いつ極早生が実るか。それは年によって異なるので、天気を見ながら蜜柑園に電話をし、今日か明日かと、待ち続ける日々。
 極早生の、皮が緑色の、朝採り。ああ~、蜜柑はこれに限る! しかもそれは極早生が出てから1週間という期間限定。なぜなら、すぐに黄色く色づいてしまうから。
 酸味たっぷりのその味も素晴らしいが、魅力の本質は緑色の皮。緑色の皮を剥く時、皮からアロマオイルがしゅっと噴出。その香り! 皮に鼻を押し付けて、私はうっとりと酔いしれる。この香りは、採ってから2~3日ぐらいでなくなってしまうので、遠方から運んできた極早生蜜柑では望むべくもない。そしてなんと、この香りには、欝を吹き飛ばす効能があると言い伝えられているのですよ。

 アールグレイの香り付けに使用するベルガモットはカナリア諸島に自生していた柑橘類である。それをコロンブスが地中海に伝えたという。(ただし、自生といっても、その源はやはり中国の蜜柑なのだそうである。おそらく、鳥によって種子が運ばれたに違いなく。)
 ベルガモットは、緑色の固い柑橘で、実を食べることはほとんどない。その皮の香りが貴重なのだという。柑橘の香り、欝を忘れさせる香り。

 カナリア諸島は大西洋に浮かぶ7つの島で、ヘスペリデスのモデルになった場所と言い伝えられている。ヘスペリデスはギリシャ神話に登場する楽園で、黄金のりんごが実る場所。ということは…黄金のりんごとはベルガモットの果実だったに違いない。え?林檎の正体は蜜柑だった?という、これもまたややこしいお話なのですが。

 ベルガモットの香りが立ち込める島、それはまさに地上の楽園。この世の欝を忘れさせる香りが立ち込めている場所なのだから。欝を忘れる、それは、わずらわしい日常、現世を忘れるということなのだろう。
 橘の花の香りをかいで昔の人の袖の香りを思い出すという歌がある。柑橘の花は、甘やかな過去へと心を引き戻す。そして実の香りは、未来への不安を消し去るということなのだろう、きっと。
 
 ところで、カナリア諸島といえば…そう、この島に生息していたフィンチが、カナリアと名付けられて、愛玩鳥として世界中に広まったのです。ベルガモットの香りの中でさえずっていた小鳥たちです。


2013年10月17日木曜日

二十八日の闇夜、昇るオリオン、源氏星と平家星を眺めながら海へ

 源氏の歴史を紐解くには、「吾妻鏡」と「平家物語」が基本です。海外留学生の知人から、「平家物語」って中身は源氏物語だったんだねえ、などと言われたことがありますが、私もそう思いましたよ。
 
 吉川英治氏の「新・平家物語」は、女性の描写が素晴らしい作品です。政子の色香を椿の花にたとえるあたり。政子が頼朝と出会った時、21才。(さらに今風に書けば、恋人いない歴21年)。唇の赤さを椿の花にたとえれば、当然、豊かな黒髪と椿油の香りまでもが連想されるでしょう。
 …と、大好きな「新・平家物語」ですが、全体の印象としては、修験者(山伏)の出番が少ないように思われます。もちろん、文芸作品ですから史実重視ではないでしょうけれど。
 
 「新・平家物語」では、頼朝が石橋山の敗走後、真鶴からの船出は明け方として描かれています。早朝、湯河原の街中を抜けて真鶴の海岸に向かい、なんとそこには政子が見送りに来ていた、という感動的な演出です。それはそれで素敵なストーリーとしても、やはり私は、真鶴からの船出は夜のうちだったのではないか、と思うわけです。
 
 なにせ月のない夜なのです。逃げるなら闇夜に紛れてでしょう。仮に発見されても、なんとかなります。だいたい、鎧を脱ぎ捨てての逃亡はできないのです。鎧を着けていれば、もうそれだけで「落武者ばればれ」状態。それこそ、お天道様の下は歩けません。
 漁師の小船に乗って逃げるといっても、海上で発見される恐れはあり、そうなったら、船の性能を考えた場合、逃げ切りは無理。

 ・・・などと、湯河原は青木精肉店の揚げたてコロッケを食べながら海を眺め、う~ん、と私は腕組みしましたよ。で、その結果、やはりどうしても、闇夜に紛れてだろうな、と思ったのです。
 
 「新・平家物語」では、頼朝が湯河原山中で鳥や木の実を食べて逃亡していたということになっていますが、土肥実平の屋敷から女中が食べ物を届けたという話は、前回書いたとおりです。

 深夜、真鶴海岸までは山伏が付き添い、真夜中のうちに海上に出てしまう、これがもっとも安全なルートに思えるのです。暗い海の上に輝くオリオン、まさに源氏星、平家星を見つけて船を漕ぎ出す。私の頭の中では、そんな想像が駆け巡っているのです。
 
※ 写真はしとどの里の参道口近くにある看板です。



2013年10月15日火曜日

二十六日の月は東の空に、安房の国に新たな夜明けへの期待を込めて

 源頼朝の挙兵に応じ、援軍に駆けつけた三浦一族ですが、大雨で酒匂川が増水し、渡れなかったため、石橋山の合戦に参加できなかったとあります。
  三島大社の大祭のすぐ後に、台風がやってきたのでしょう。頼朝軍敗走の知らせを聞いて、衣笠城に引き返します。

 八月二十六日、79歳の三浦義明はわずかの兵と共に篭城して戦うのです。(三浦義明の娘は、源義朝の側室。一説には悪源太、義平の母。)
 戦いのさなか、三浦勢はひそかに海上に逃れます。闇夜の中です。二十六日の月は、明け方近くになってようやく昇ります。落城の炎を背に、昇り始めた細い月の方向にあるのは安房の国。
 
 頼朝が潜んでいたしとどの里からは、炎上する衣笠城が遠くに見えたでしょう。
 
 私、衣笠にしばらく住んでいたことがあります。その家は山の中腹に建っていました。衣笠インターのすぐ側です。そこからは、衣笠城があったという小高い山がよく見えました。衣笠城は典型的な山城です。急な斜面を昇っていくと、昔衣笠城があったという跡には、石碑が建っているだけ。城跡の裏は崖になっていて、岩や瓦礫がごろごろしています。
 城山に登る途中にある寺の看板に、衣笠城落城のいきさつが、ちょっとだけ記されていた記憶があります。山の頂上まで登って行くと、茂った木の間から、富士山や箱根の山を眺めることもできました。

※ 写真は9月半ば、しとどの里への参道で撮影

石仏に心宿るなどあるわけもなし、わかりきったことなれど、
伏したる半眼に映りし世の姿を、それでも問うてみたいと願う我あり


巌谷に滴る水は滾々と、山肌を伝って大河の源となる

 「土肥大椙」の碑は、道沿いに建っていますが、大杉は山中にありました。 
 それもかなり険しい山道で、足を滑らせたら谷底に滑落。なので、ここに行く時には、足元しっかりと固めてください。滑落した時の通信手段として、3G回線端末必携です。なぜなら、WiFiスポットはありませんので。そして、一人では行かないように。しかし、甲冑付けてこの斜面を逃げ延びるってのは・・・。
 
 大杉の洞に隠れた源頼朝ですが、そこからさらに下の岩屋へ。しとどの里と呼ばれる場所です。しとど…どういう意味なのかはわかりません。が、なんとなく、しとしと、水が滴っている岩屋だからなのか、と思うようなネーミングです。
 箱根の山に降った雨が染み出しているのです。水滴が集まって流れを作ります。まさにここは水の源流、源の地なのです。
 
 今では、しとどの里まで降りていく参道が作られているのですが、それでもかなり険しい。参道の降り口に、木の枝がたくさん並べてあります。杖代わりの木の枝です。つまり、杖を突いて降りたほうがいいぐらい険しいのです。
 
 しとどの里から下へ降りるとそこが湯河原の町。今でも登山道はいちおうあります。あることはあるのですが・・・。倒木だらけのあの細い道を行き来するのは、常人ではまず無理だと思われました。
 岩屋に隠れている頼朝一行のために、湯河原の土肥実平の屋敷からは女中が密かに食事を運んでいたといいます。それも、敵方の目につかないように、夜になってから。いのししも熊も、もしかしたら日本狼もいた時代ですよ・・・。

 湯河原、伊豆、箱根は、古来より山伏の修行場だったといいます。源氏勢力は、山伏たちを味方につけていたのでしょう。だから源頼朝は湯河原山中に逃れたのです。

※ しとどの里、岩屋に向かう途中

君をかくまいし大杉の 梢に渡る風の音を聞きたし 
千歳の時空を超えて聞きたしと願いつつ 天に向かいて耳澄ます



イイクニ作ろう鎌倉幕府、え? それよりマイナス12年?

 イイクニ作ろう鎌倉幕府、1192年。覚えましたよね、昔。
 と思ったら、1185年から成立という説が有力なんですって? 教科書も書き換えるかも知れないんですって? 
 
 というわけで、サムライヒーローシリーズ、源頼朝編。.
 彼は、1147年、4月8日、名古屋市熱田区生まれ。母の由良御前は、熱田神宮の大宮司、藤原秀範の娘。
 平家と源氏との争いで源氏が敗北、首謀者の息子として処刑されるところを、伊豆に流罪。伊豆ではけっこう楽しく暮らしていたようなんです。伊東祐親の娘、八重姫と恋仲になるのですが、平家の怒りを恐れた伊東祐親によって、仲を裂かれます。
 その後、1178年頃から、北条政子とつきあっていたといいます。が、1180年、以仁王と源頼政のクーデターが失敗し、やばい雰囲気になってくるわけですね。このまま暢気に暮らしてはいられないかも~。
 
 そして挙兵は三島神社の大祭。八月十七日。祭りにつけこんで挙兵しようという作戦は、歴史的にみても古くからありました。
 しかし、旗色悪く、八月二十四日、湯河原の椙山に逃走。この日付は旧暦ですが、太陽暦ではだいたい、9月半ばぐらいだったといいます。残暑厳しき頃。湯河原山中は馬では入れませんので、馬を乗り捨て、甲冑を着けて、急斜面を逃走! 
 馬って、平原を走るものなので、斜面は弱い。鹿に乗れれば、どんなにかいいでしょうね。鹿なら斜面に強いのに。しかし、鹿に乗るのは難しい。鹿島神宮の神様は鹿に乗って奈良まで行ったというのですが…。もしも鹿を乗りこなして家畜にしていたなら、日本の文化もいろいろと変わったでしょうに。と、ちょっと脱線。
 
 とにかく、頼朝軍わずか7騎、・・・って記載されていますけどね、馬を乗り捨てちゃったら騎とは数えないだろうって、ツッコミ入れたくなります、思わず。で、その7人、湯河原山中を敗走、大杉の大朽穴に隠れる。梶原景時、大朽穴の中に入り、頼朝と目を合わせるも「中には誰も居ない」と報告するのです。
 鎌倉幕府発祥の起源、「土肥大椙」ここに在り! 最後の最後まで諦めちゃいか~ん、というお話です。

 その大杉は、大正時代まであったそうですが、台風で倒れ、今は記念碑だけになっています。

 さて、教科書では鎌倉幕府は1185年から成立という説が有力になっていると書きましたが…。この碑では1180年、ここ湯河原山中が鎌倉幕府発祥の地であると記載されています。