伊豆、神奈川は蜜柑の産地。私、個人的に伊豆、神奈川の蜜柑が贔屓なのです。しかも湯河原は石澤商店、蜜柑はもちろん、レモン、オレンジ各種、柚子、橙…。さまざまな柑橘類が揃っているお店です。
なぜ伊豆、神奈川で蜜柑がたくさん栽培されているのか。まず気候があっていたということ。暖かく日当たりが良い。でもそれだけではなく、古来から都との行き来が盛んだったからでしょう。つまり、古くから蜜柑の種が持ち込まれたということです。
相模国の産物として、橘の実があったと古文献に記されています。神奈川には橘という地名があるのです。1号線、西湘バイパス橘インター。これがヤマトタチバナだとしても、もともとは西のほうにしかなかったものなので、あきらかに都を経由して持ち込まれたはずです。
万葉人はおおらかなので、言葉がアバウトです。橘といっても、それは柚子や蜜柑、つまり橘の仲間がすべて含まれていたに違いありません。
柑橘は南の産物ですが、では北限はどこか。一般には神奈川山北町あたりですが、しかし、私は、もっと北限を知っています。
それは筑波山の麓。なぜ筑波山の麓で蜜柑が…といえば、筑波山の麓は古来より、都との行き来が盛んだった土地なのです。都から持ち込まれ、大切に栽培されていたのでしょう。商業用として出荷できるほどは採れないけれど、言い伝えを細々と守るように、観光農園がぽつんとあったと記憶しています。
温州蜜柑は、三国志では曹操の好物として登場し、左慈仙人が、蜜柑の中身を消して皮だけにしてしまった、というあのエピソードで有名。貴重な果物として、帰化人によって日本へと渡ってきたと考えられます。
ところで、666年に、高麗国使節としてやってきた高麗王若光(こまのこきし じゃっこう)は、祖国が新羅によって滅ぼされたため、帰国の機会を失い、帰化人となります。
大磯海岸に船をつけて相模に入ったという説があり、大磯海岸は、かつて「もろこしが原」と呼ばれていたといいます。となると、蜜柑は、高麗国の使節によって、大量に持ち込まれたのではないだろうか、などという想像も浮かんでくるわけです。
北条記には、伊豆山権現(走湯山)の由緒についてこう記されています。「高麗国より、神功皇后の御船に召されてやってきた(帰化人が)相模国の高麗寺山に入り、その後、仙人が走湯山へ参詣し、移居」。これは、修験道に帰化人の影響があったということです。そして、伊豆権現は、北条家、源頼朝との縁も深い場所です。頼朝の旗揚げの時、北条政子は伊豆権現に身を寄せていました。
頼朝が真鶴から船を出したのは旧八月の終り。そして安房の国についたのが旧九月初。伊豆では極早生の蜜柑が実り始めた頃、海が見える丘に、蜜柑の香りが漂い始めていたのでしょう。
※ 陽光の剣、高麗王若光物語はぜひ読んでみたいと思います。
2013年10月18日金曜日
2013年10月17日木曜日
二十八日の闇夜、昇るオリオン、源氏星と平家星を眺めながら海へ
源氏の歴史を紐解くには、「吾妻鏡」と「平家物語」が基本です。海外留学生の知人から、「平家物語」って中身は源氏物語だったんだねえ、などと言われたことがありますが、私もそう思いましたよ。
吉川英治氏の「新・平家物語」は、女性の描写が素晴らしい作品です。政子の色香を椿の花にたとえるあたり。政子が頼朝と出会った時、21才。(さらに今風に書けば、恋人いない歴21年)。唇の赤さを椿の花にたとえれば、当然、豊かな黒髪と椿油の香りまでもが連想されるでしょう。
…と、大好きな「新・平家物語」ですが、全体の印象としては、修験者(山伏)の出番が少ないように思われます。もちろん、文芸作品ですから史実重視ではないでしょうけれど。
「新・平家物語」では、頼朝が石橋山の敗走後、真鶴からの船出は明け方として描かれています。早朝、湯河原の街中を抜けて真鶴の海岸に向かい、なんとそこには政子が見送りに来ていた、という感動的な演出です。それはそれで素敵なストーリーとしても、やはり私は、真鶴からの船出は夜のうちだったのではないか、と思うわけです。
なにせ月のない夜なのです。逃げるなら闇夜に紛れてでしょう。仮に発見されても、なんとかなります。だいたい、鎧を脱ぎ捨てての逃亡はできないのです。鎧を着けていれば、もうそれだけで「落武者ばればれ」状態。それこそ、お天道様の下は歩けません。
漁師の小船に乗って逃げるといっても、海上で発見される恐れはあり、そうなったら、船の性能を考えた場合、逃げ切りは無理。
・・・などと、湯河原は青木精肉店の揚げたてコロッケを食べながら海を眺め、う~ん、と私は腕組みしましたよ。で、その結果、やはりどうしても、闇夜に紛れてだろうな、と思ったのです。
「新・平家物語」では、頼朝が湯河原山中で鳥や木の実を食べて逃亡していたということになっていますが、土肥実平の屋敷から女中が食べ物を届けたという話は、前回書いたとおりです。
深夜、真鶴海岸までは山伏が付き添い、真夜中のうちに海上に出てしまう、これがもっとも安全なルートに思えるのです。暗い海の上に輝くオリオン、まさに源氏星、平家星を見つけて船を漕ぎ出す。私の頭の中では、そんな想像が駆け巡っているのです。
※ 写真はしとどの里の参道口近くにある看板です。
吉川英治氏の「新・平家物語」は、女性の描写が素晴らしい作品です。政子の色香を椿の花にたとえるあたり。政子が頼朝と出会った時、21才。(さらに今風に書けば、恋人いない歴21年)。唇の赤さを椿の花にたとえれば、当然、豊かな黒髪と椿油の香りまでもが連想されるでしょう。
…と、大好きな「新・平家物語」ですが、全体の印象としては、修験者(山伏)の出番が少ないように思われます。もちろん、文芸作品ですから史実重視ではないでしょうけれど。
「新・平家物語」では、頼朝が石橋山の敗走後、真鶴からの船出は明け方として描かれています。早朝、湯河原の街中を抜けて真鶴の海岸に向かい、なんとそこには政子が見送りに来ていた、という感動的な演出です。それはそれで素敵なストーリーとしても、やはり私は、真鶴からの船出は夜のうちだったのではないか、と思うわけです。
なにせ月のない夜なのです。逃げるなら闇夜に紛れてでしょう。仮に発見されても、なんとかなります。だいたい、鎧を脱ぎ捨てての逃亡はできないのです。鎧を着けていれば、もうそれだけで「落武者ばればれ」状態。それこそ、お天道様の下は歩けません。
漁師の小船に乗って逃げるといっても、海上で発見される恐れはあり、そうなったら、船の性能を考えた場合、逃げ切りは無理。
・・・などと、湯河原は青木精肉店の揚げたてコロッケを食べながら海を眺め、う~ん、と私は腕組みしましたよ。で、その結果、やはりどうしても、闇夜に紛れてだろうな、と思ったのです。
「新・平家物語」では、頼朝が湯河原山中で鳥や木の実を食べて逃亡していたということになっていますが、土肥実平の屋敷から女中が食べ物を届けたという話は、前回書いたとおりです。
深夜、真鶴海岸までは山伏が付き添い、真夜中のうちに海上に出てしまう、これがもっとも安全なルートに思えるのです。暗い海の上に輝くオリオン、まさに源氏星、平家星を見つけて船を漕ぎ出す。私の頭の中では、そんな想像が駆け巡っているのです。
※ 写真はしとどの里の参道口近くにある看板です。
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北条政子.湯河原.修験道.椿油
2013年10月15日火曜日
巌谷に滴る水は滾々と、山肌を伝って大河の源となる
「土肥大椙」の碑は、道沿いに建っていますが、大杉は山中にありました。
それもかなり険しい山道で、足を滑らせたら谷底に滑落。なので、ここに行く時には、足元しっかりと固めてください。滑落した時の通信手段として、3G回線端末必携です。なぜなら、WiFiスポットはありませんので。そして、一人では行かないように。しかし、甲冑付けてこの斜面を逃げ延びるってのは・・・。
大杉の洞に隠れた源頼朝ですが、そこからさらに下の岩屋へ。しとどの里と呼ばれる場所です。しとど…どういう意味なのかはわかりません。が、なんとなく、しとしと、水が滴っている岩屋だからなのか、と思うようなネーミングです。
箱根の山に降った雨が染み出しているのです。水滴が集まって流れを作ります。まさにここは水の源流、源の地なのです。
今では、しとどの里まで降りていく参道が作られているのですが、それでもかなり険しい。参道の降り口に、木の枝がたくさん並べてあります。杖代わりの木の枝です。つまり、杖を突いて降りたほうがいいぐらい険しいのです。
しとどの里から下へ降りるとそこが湯河原の町。今でも登山道はいちおうあります。あることはあるのですが・・・。倒木だらけのあの細い道を行き来するのは、常人ではまず無理だと思われました。
岩屋に隠れている頼朝一行のために、湯河原の土肥実平の屋敷からは女中が密かに食事を運んでいたといいます。それも、敵方の目につかないように、夜になってから。いのししも熊も、もしかしたら日本狼もいた時代ですよ・・・。
湯河原、伊豆、箱根は、古来より山伏の修行場だったといいます。源氏勢力は、山伏たちを味方につけていたのでしょう。だから源頼朝は湯河原山中に逃れたのです。
※ しとどの里、岩屋に向かう途中
君をかくまいし大杉の 梢に渡る風の音を聞きたし
千歳の時空を超えて聞きたしと願いつつ 天に向かいて耳澄ます
それもかなり険しい山道で、足を滑らせたら谷底に滑落。なので、ここに行く時には、足元しっかりと固めてください。滑落した時の通信手段として、3G回線端末必携です。なぜなら、WiFiスポットはありませんので。そして、一人では行かないように。しかし、甲冑付けてこの斜面を逃げ延びるってのは・・・。
大杉の洞に隠れた源頼朝ですが、そこからさらに下の岩屋へ。しとどの里と呼ばれる場所です。しとど…どういう意味なのかはわかりません。が、なんとなく、しとしと、水が滴っている岩屋だからなのか、と思うようなネーミングです。
箱根の山に降った雨が染み出しているのです。水滴が集まって流れを作ります。まさにここは水の源流、源の地なのです。
今では、しとどの里まで降りていく参道が作られているのですが、それでもかなり険しい。参道の降り口に、木の枝がたくさん並べてあります。杖代わりの木の枝です。つまり、杖を突いて降りたほうがいいぐらい険しいのです。
しとどの里から下へ降りるとそこが湯河原の町。今でも登山道はいちおうあります。あることはあるのですが・・・。倒木だらけのあの細い道を行き来するのは、常人ではまず無理だと思われました。
岩屋に隠れている頼朝一行のために、湯河原の土肥実平の屋敷からは女中が密かに食事を運んでいたといいます。それも、敵方の目につかないように、夜になってから。いのししも熊も、もしかしたら日本狼もいた時代ですよ・・・。
湯河原、伊豆、箱根は、古来より山伏の修行場だったといいます。源氏勢力は、山伏たちを味方につけていたのでしょう。だから源頼朝は湯河原山中に逃れたのです。
※ しとどの里、岩屋に向かう途中
君をかくまいし大杉の 梢に渡る風の音を聞きたし
千歳の時空を超えて聞きたしと願いつつ 天に向かいて耳澄ます
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