2013年10月18日金曜日

君よ知るや都の蜜柑、帰化人から都人へ、都人から地方へと蜜柑は広まった

 伊豆、神奈川は蜜柑の産地。私、個人的に伊豆、神奈川の蜜柑が贔屓なのです。しかも湯河原は石澤商店、蜜柑はもちろん、レモン、オレンジ各種、柚子、橙…。さまざまな柑橘類が揃っているお店です。

 なぜ伊豆、神奈川で蜜柑がたくさん栽培されているのか。まず気候があっていたということ。暖かく日当たりが良い。でもそれだけではなく、古来から都との行き来が盛んだったからでしょう。つまり、古くから蜜柑の種が持ち込まれたということです。

 相模国の産物として、橘の実があったと古文献に記されています。神奈川には橘という地名があるのです。1号線、西湘バイパス橘インター。これがヤマトタチバナだとしても、もともとは西のほうにしかなかったものなので、あきらかに都を経由して持ち込まれたはずです。
 万葉人はおおらかなので、言葉がアバウトです。橘といっても、それは柚子や蜜柑、つまり橘の仲間がすべて含まれていたに違いありません。
 
 柑橘は南の産物ですが、では北限はどこか。一般には神奈川山北町あたりですが、しかし、私は、もっと北限を知っています。
 それは筑波山の麓。なぜ筑波山の麓で蜜柑が…といえば、筑波山の麓は古来より、都との行き来が盛んだった土地なのです。都から持ち込まれ、大切に栽培されていたのでしょう。商業用として出荷できるほどは採れないけれど、言い伝えを細々と守るように、観光農園がぽつんとあったと記憶しています。
 
 温州蜜柑は、三国志では曹操の好物として登場し、左慈仙人が、蜜柑の中身を消して皮だけにしてしまった、というあのエピソードで有名。貴重な果物として、帰化人によって日本へと渡ってきたと考えられます。

 ところで、666年に、高麗国使節としてやってきた高麗王若光(こまのこきし じゃっこう)は、祖国が新羅によって滅ぼされたため、帰国の機会を失い、帰化人となります。
 大磯海岸に船をつけて相模に入ったという説があり、大磯海岸は、かつて「もろこしが原」と呼ばれていたといいます。となると、蜜柑は、高麗国の使節によって、大量に持ち込まれたのではないだろうか、などという想像も浮かんでくるわけです。


 北条記には、伊豆山権現(走湯山)の由緒についてこう記されています。「高麗国より、神功皇后の御船に召されてやってきた(帰化人が)相模国の高麗寺山に入り、その後、仙人が走湯山へ参詣し、移居」。これは、修験道に帰化人の影響があったということです。そして、伊豆権現は、北条家、源頼朝との縁も深い場所です。頼朝の旗揚げの時、北条政子は伊豆権現に身を寄せていました。
 
 頼朝が真鶴から船を出したのは旧八月の終り。そして安房の国についたのが旧九月初。伊豆では極早生の蜜柑が実り始めた頃、海が見える丘に、蜜柑の香りが漂い始めていたのでしょう。

※ 陽光の剣、高麗王若光物語はぜひ読んでみたいと思います。


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