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2013年11月10日日曜日

暦占VS兵力、富士川(フォッサマグナ)を挟んで合戦するも・・・

 1180年の話です。頼朝旗揚げの知らせが京の都に届き、清盛は討伐の命令を出します。旧暦九月五日のことですから、頼朝が安房の国にいた頃。が…。討伐軍はなかなか出ない。出陣の日取りを巡ってすったもんだしていたため。お日柄がいいとか悪いとか。そして、旧暦九月二十九日(10月19日)にようやく京を立つのです。その間に頼朝は安房の国を出て、浅草で諸将と合流。つまり、頼朝に再起の時間を与えてしまったというわけです。
 
 総大将は清盛の孫、維盛ですが、実質、軍を取り仕切っていたのは、維盛の乳父(めのと)、つまり養育係の藤原忠清。忠清が「お日柄が悪いですぞ、若」とかなんとか言っていたんでしょう、きっと。
 まあ、暦占で日取りを占って戦っていた武将はたくさんいます。なんと、頼朝の先祖である源頼義が安倍宗任を攻めた時にも、忌日には攻めたくないといって延期したという話が伝わっています。暦占で忌日とされると出陣はナシ。

 忌日はつまり、具注暦の中の凶会日(くえにち)ですが、干支の陰陽が不調和の日です。枕草子にも登場する話題です。たとえば正月は、辛卯、庚戌、甲寅の日が凶会日となります。

 さらに、十死日、絶命日も忌日で、今の暦占とほぼ同じですが、十死日は正月、四月、七月、十月の酉の日、二月、五月、八月、十一月の巳日、三月、六月、九月、十二月の丑日。
 絶命日は春の巳と酉の日、夏の亥と未の日、秋の亥と寅の日、冬の巳と丑の日。そして春は庚辛日、夏は壬癸日、秋は丙丁日、冬は戊己日、土用は甲乙日、というのもNG!そしてきっと…黒日もあったのでしょうね。黒日は、正月戌、二月辰、三月亥、四月巳、五月子、六月午、七月丑、八月未、九月寅、十月申、十一月卯、十二月酉。以上は節切り月、つまり十二支月です。
 さらには、三、五、九、十一、十五、十七、二十一、二十三、二十七、二十九日は除外されるので可とあり、ただし小の月の晦日はダメ。…ということは、この日付は、朔望月でチェックするわけですね。ええい、ややこしいっ!
 その他に、その日の凶方位に向かうのであれば方違えも必要だったのでしょう。…そんなことしていたら、負けちゃうでしょ。どう考えたって~。
 
 合戦前夜。つまり旧十月二十三日の夜(1180年11/12)。突然、水鳥の羽音が響き渡る。平氏は、その羽音を敵の夜襲と勘違い、(合戦の約束は明日だろ~、ええいっ卑怯だぞっ、とうろたえながらも)全員逃亡。翌二十四日の朝方、源氏方は、富士川で勝鬨の声を三度あげたといいます。戦わずして勝ったわけですが。

※ 歴女なんですね、秋月さん、と言われました。いいえ、暦女と呼んでください。




2013年10月19日土曜日

朝日将軍、義仲、日蝕(エクリプス)に倒れる

 歴史が動く時というのは、いきなりらしい。旧暦八月十七日、三島大社の大祭からわずか二十日後、旧暦九月七日、木曽義仲旗揚げ。

 木曽義仲は、平家物語の中ではさんざんに書かれていますが…。
 子供の頃から狼を一人で退治する剛の者、都からやってきた僧に学問を習い、地元の有力者の後ろ盾もいるという、かなり毛並みの良い人物なのです。四天王と呼ばれた配下と巴御前を従え、鬼神のごとく暴れまくったサムライヒーローであることは間違いありません。

 (吉川英治「新・平家物語」では、正妻の巴御前の他に、葵御前という美女も登場します。2人が義仲を愛し、女武者として命をかけて戦うという、男なら鼻血が出そうなストーリーになっているのです。はぁあ~。私は読んでいて、ため息が出ます。)

 さて、1183年七月、平家を都から追い出したのは義仲です。義仲は、京に入り、朝日将軍と自らを称しました。
 そんな素晴らしい義仲が、なぜ敗れたのか。その原因は幾つかありますが、まず、コンプレックスがなかったことだろうと私は思います。倶利伽羅峠に勝利し、それこそ破竹の勢い。自信満々で政治にばんばん口出し、後白河法皇に、ウザイ、と嫌われたのです。
 
 そしてもうひとつの要因は、日蝕(エクリプス)。時は閏十月朔(1183年、11月24日)、水島の合戦。(瀬戸内海、現在の倉敷市付近)。
 合戦の最中に、金環日蝕が起こったのです。源氏方は大混乱。義仲は朝日将軍、太陽の申し子、いわばアポロンです。そのアポロンの戦いで、あろうことか太陽が欠けるなんて! 
 
 が、平家方は、この日蝕をあらかじめ知っていたといいます。なぜなら昔から蝕の予言は、政治的に重要だったからです。蝕が起こると、御所の行事はすべて中止なのでございま~す。
 暦の計算は、陰陽師の仕事。陰陽師は御所に仕えています。都の貴族たちは、占いを気にし、毎朝起きると、すぐに暦を見たといいます。凶方角があれば、方違えをしなくてはなりません。お日柄によって、やるべきこと、やってはいけないことなどもあり、ほんに忙しいことよのう。オホホホッ!
 暦を使っていれば、日蝕が朔(新月)に起こることぐらいも、まあ知っているのでしょう。逆に、日蝕が起こる可能性を知っていて、戦いを仕掛けたのではないかという推測さえも成り立つのです。
 
 しかし、義仲は暦など気にもしていなかったようです。興味があるのは、月の巡り。闇夜になれば闇討ちを、満月の晩には夜中の行軍も可能、といったあたりでしょうか。あとは、戦いの勝敗は天気で決まるので、風や雲を読むことは重視していたようですが・・・。
 暦占などはまったく信じてはいなかったはずです。が、その義仲が欠けていく太陽に驚き、源氏の軍勢は、士気を失って総崩れになるのです。

※ 2012年の日蝕です。日蝕ラインは、東京、箱根、駿河。江戸が築き上げてきた日本文化のサイクルにおけるひとつの終焉を意味するものかも知れません。