総大将は清盛の孫、維盛ですが、実質、軍を取り仕切っていたのは、維盛の乳父(めのと)、つまり養育係の藤原忠清。忠清が「お日柄が悪いですぞ、若」とかなんとか言っていたんでしょう、きっと。
まあ、暦占で日取りを占って戦っていた武将はたくさんいます。なんと、頼朝の先祖である源頼義が安倍宗任を攻めた時にも、忌日には攻めたくないといって延期したという話が伝わっています。暦占で忌日とされると出陣はナシ。
忌日はつまり、具注暦の中の凶会日(くえにち)ですが、干支の陰陽が不調和の日です。枕草子にも登場する話題です。たとえば正月は、辛卯、庚戌、甲寅の日が凶会日となります。
さらに、十死日、絶命日も忌日で、今の暦占とほぼ同じですが、十死日は正月、四月、七月、十月の酉の日、二月、五月、八月、十一月の巳日、三月、六月、九月、十二月の丑日。
絶命日は春の巳と酉の日、夏の亥と未の日、秋の亥と寅の日、冬の巳と丑の日。そして春は庚辛日、夏は壬癸日、秋は丙丁日、冬は戊己日、土用は甲乙日、というのもNG!そしてきっと…黒日もあったのでしょうね。黒日は、正月戌、二月辰、三月亥、四月巳、五月子、六月午、七月丑、八月未、九月寅、十月申、十一月卯、十二月酉。以上は節切り月、つまり十二支月です。
さらには、三、五、九、十一、十五、十七、二十一、二十三、二十七、二十九日は除外されるので可とあり、ただし小の月の晦日はダメ。…ということは、この日付は、朔望月でチェックするわけですね。ええい、ややこしいっ!
その他に、その日の凶方位に向かうのであれば方違えも必要だったのでしょう。…そんなことしていたら、負けちゃうでしょ。どう考えたって~。
合戦前夜。つまり旧十月二十三日の夜(1180年11/12)。突然、水鳥の羽音が響き渡る。平氏は、その羽音を敵の夜襲と勘違い、(合戦の約束は明日だろ~、ええいっ卑怯だぞっ、とうろたえながらも)全員逃亡。翌二十四日の朝方、源氏方は、富士川で勝鬨の声を三度あげたといいます。戦わずして勝ったわけですが。
※ 歴女なんですね、秋月さん、と言われました。いいえ、暦女と呼んでください。
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