2015年7月27日月曜日

薬用植物というより魔界植物。閻魔大王も江戸っ子も、みんな大好きさ、蒟蒻

 日本のお盆事情はまことに奇妙で、本来は旧暦七月十五日に行っていたものを、明治の改暦以降、7月15日という日付はそのままに、新暦(グレゴリオ暦)で行うようになってしまった地域がある。一方、農村や地方では、月遅れ盆として新暦8月15日に行うようになったため、7月15日と8月15日の二系統が生じた、これが日本のお盆の特殊事情です。
 ということはさておき、盆の料理は祖霊のために作るので、基本的には精進料理。がんもどきや蒟蒻などが大活躍。…が、しかし。蒟蒻って、もともとは薬用植物だったんですよ。

 東南アジア原産の蒟蒻が日本に渡ってきたのは6世紀の頃で、仏教の経典などと一緒に渡来したものらしい。当時は、貴族など身分の高い金持ちしか口にすることができなかったという食材。しかも薬用。コンニャクマンナンを使用したダイエットか?そういえば、平安貴族には糖尿病が多かったという説があるから…という連想をするのが、現代人の発想なのだろうが、そうではない。蒟蒻の効用はというと「腸内の砂おろし」だそう。
 
 祖母も、そんなことを言いながら蒟蒻の煮物を食卓に並べていたことがありましたね。「砂おろしって何?」と、私は聞いたことがある。なんで腸に砂なんて入っているわけ?鶏でもあるまいに。と聞いたら「腸に詰まった汚れを取り除く」と祖母は言いましたが…もしかしてそれは宿便? 砂の意味がいまいち判明しないのですが、とにかく「砂おろし」だそうで。が、しかし。現代では、むしろ蒟蒻を食べ過ぎて腸に詰まるほうを心配したほうがいいような気もします。
 
 蒟蒻の作り方ですが、本来は収穫した蒟蒻芋を生のまますりおろし、お湯を混ぜて練り、そこに灰を混ぜて固めたら茹でる。簡単にいうとそんな感じだそうです。(そんな感じだそうです、というのは、実際にやったことがないため。)
 
 蒟蒻は、荒れ地でも出来るということで、作物に乏しい村などでよく栽培されたのだとか。肥料はそれほどいらないけれど、水はけが悪いと育たず、収穫するまでに3年はかかるという。冬になると芋を畑から掘りあげて保存し、春に再び畑に植えて育てる。これを繰り返し、3年たつとようやく収穫できる大きさになるのだとか。掘り上げた芋の中で3年たったものを蒟蒻にする。そう、晩秋に掘り起こした芋をすりおろして作るのが蒟蒻。だから、本来は冬の食材だったというわけ。
 
 蒟蒻が大人気となって巷に広がったのは、江戸時代に入ってから。人気の理由は、あのぷにょぷにょした食感にあったらしい。また、昔は高貴な人しか食べられなかった薬用植物だったというのも、人々の興味を惹きつける要因だったのかと。江戸時代、「蒟蒻百珍」という料理本が発売されますが、これは「豆腐百珍」の蒟蒻版。
 
 江戸では「芝居蒟蒻芋南瓜(しばい、こんにゃく、いも、なんきん)」とまで言われたらしく。これは女子が好む物だそうな。といっても、井原西鶴(1642年-1693年9月9日(元禄6年8月10日)は「浮世草紙」で、「とかく女の好むもの 芝居 浄瑠璃 芋蛸南瓜」と記しており、「蒟蒻」がないことからすると、井原西鶴は蒟蒻嫌いだったのかも…。
 
 そして江戸の町で、蒟蒻がバカ売れしたのは、富士山の噴火のおかげ。蒟蒻は「腸内の砂おろし」効果があると信じられていたため。1707年(宝永4年)将軍綱吉の治世、富士山の噴火で江戸の町にも火山灰が降り注いだわけですが、その火山灰を体の中から出すのに効果があると信じられたのが…「蒟蒻」。つまり、一種の健康食品みたいなものとして認識されていたということ。

 ところで、古くは蒟蒻は冬の食物でありました。それは蒟蒻芋の収穫が秋だったから。
さらには蒟蒻作りは含まれるシュウ酸のせいで手が荒れるので、一般家庭で簡単に作れるものではなかった。そして作った蒟蒻は、日持ちせいぜい2~3日。
 が、その蒟蒻、冬だけでなく手軽に食べられるようになったのは、中島藤右衛門(1745~1825)のおかげ。中島藤右衛門は、茨城県北部の人であるが、乾燥した芋が腐らないことに注目し、15歳から蒟蒻を乾燥させて粉にする実験をはじめ、見事製品化にこぎつける。つまり、こんにゃくの製造革命を起こしたわけです。蒟蒻粉は保存は効くし、持ち運びにも便利。そしてすりおろす手間も省けるというわけで、更に広く普及していくのでありました。

 盆に蒟蒻を食するようになったというのは、たぶん仏教と蒟蒻の関係性、精進料理に使用するあたりからかと思われます。閻魔様は、盆で亡者が地上に帰っている間はお仕事お休みなのだそうですが、盆の食材を仏前に供える関係性から、蒟蒻が閻魔様の好物ということになっていった可能性はあります。
 
 「蒟蒻閻魔」は、文京区にある源覚寺に安置されている閻魔像ですが、蒟蒻閻魔の名前の由来は、宝暦の頃(1751年-1764年)眼病を患った老婦人が7×3=21日間の参籠をする。すると満願の日の夢に閻魔大王が現れ、「私の片方の眼をあげよう」と告げた。目覚めてみると老婦人の眼は治り、代わりに閻魔像の片目が濁っていたという。老婦人は、自身の好物である「蒟蒻」を断ち、閻魔像に供え続けたというお話。そこから「蒟蒻閻魔」という名前が有名になったわけです。いかにも蒟蒻が江戸で人気の食材だったということを漂わせるお話であります。
 
 蒟蒻は地下茎(芋)でも増えるし、種でも増える植物ですが、蒟蒻に花が咲くのは夏。蒟蒻の花はたいへんに臭いという。ラフレシアみたいな匂いで蝿がたくさん寄ってくるのだとか。だから、スマトラオオコンニャクには、(死体花)という和名がついているぐらい。小石川植物園などにスマトラオオコンニャクの花を見に行った方もおられましょう。つまり、蒟蒻は地下冥界に芋を作り、腐った匂いをまき散らす花なのであります。
 しかも、生のまま食べると毒。シュウ酸が大量に含まれているので。まあ、芋はたいていがそうですが、害虫を寄せ付けないためにシュウ酸を含んでいます。そのシュウ酸を水にさらし、灰汁を混ぜ、いわゆるアク抜きをしてようやく食材にできるわけです。生の蒟蒻を食べるのは厳禁。時々、生芋を食べてしまい、病院に駆け込む方がいるそうですので、気をつけましょう。生芋は素手で触るのもやめたほうがよく、とにかく危険な食材なのですね。蒟蒻を乾燥させて粉にした蒟蒻粉は、生芋ほどの破壊力はなく、攻撃性がかなり低下しているということですが、それでも素手で蒟蒻を作るのはやめたほうがよいそうです。花は臭く蝿が集まり、地下には毒の芋。ああ、これではまるで魔界植物ではありませんか。まさかそこから…閻魔様のお供え物になったというわけではない、とは思いますが。
 
  さて、中島籐右門は、茨城県北部の山方町の蒟蒻神社に祀られております。山方町は私の母方の曾祖父が暮らしたことのある地で、子供の頃に墓参に行ったことが何回かあります。あれは寺の山門の百日紅の花が満開の頃でしたから、7月だったのでしょうか。墓の移転で親戚一同が集まり、たぶん寺の本堂で会食をした記憶があります。在の寺ですから、お寺さんで食事を支度してくださる。そこに蒟蒻の煮物がついていまして、ご住職が蒟蒻に手を合わせてから召し上がっておれらる。ずいぶんと信心深い方だと思ったら、「縁あって山方塾に住まっておられた方の御供養ですから、蒟蒻には手を合わせていただいて」などとおっしゃっている。「こんにゃく?」と聞いた私に、ご住職は中島籐右門のお話をしてくださった、というわけです。その神社、どこにあるの?と祖母に聞きましたら「山奥。」だとか。寺の山門まで辿りつくよりももっと多くの階段を上らないといけない山の上の神社だと、祖母は私にそう説明しました。
 
 子供の頃は蒟蒻なんてそんなに好きじゃなかったんですが、最近、蒟蒻を出汁と鷹の爪1本入れて煮含めたのが、しみじみと美味しいと思うようになりました。そういえば、祖母は墓を移転したことをずいぶんと悔やんでいましたっけ。そういうわけで、私は蒟蒻神社にはまだ行ったことはありません。合掌。            (占術研究家 秋月さやか)



※ 向島百花園の蒟蒻。通常、畑で栽培している蒟蒻と同じ種類。5月の半ばに咲いたとかで、行った時にはもう茎は枯れていた。植えてから5年ぐらいしないと咲かないそうで、普通の畑では花は咲かない。




※ 鷹の爪は、16世紀以降に入ってきた食材なので、蒟蒻の唐辛子煮というのは、比較的新しい料理であるといえそうですが。


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