2016年8月11日木曜日

狐の修行僧は上方からやってきたベジタリアンで油揚が大好物

油揚は精進料理だった

油揚は薄切り豆腐を油で揚げた加工食品で、本来の名前は「油揚豆腐」という。
 水切りした豆腐を油で揚げ、表面に揚皮を作ったもの。ちなみにこの「油揚」には、豆腐をそのまま揚げる「厚揚」と、豆腐を薄切りにした「薄揚」があるが、薄揚をさらに高温の油でもう一度揚げると、揚皮の間に空洞ができる。これが薄揚の特徴でもあり、現在一般的に「油揚」と呼ばれている食品のこと。つまり、現在、一般に売られている「油揚」は、正式には「薄揚油揚豆腐」なのかと。
 
 豆腐は殺生を禁じられた寺院の修行僧が食べていた食品で、平安時代末期から作られており、室町時代に入って広く普及。
 優れた植物性蛋白質食品ではあるが、しかし豆腐ばかりじゃ飽きちゃうよということで、いろいろなアレンジが考えだされる。
 「油揚豆腐」もその1つで、油で揚げた豆腐が、肉や魚の代わりとして精進料理にも使用された。たとえば江戸時代に編纂された豆腐百珍の中の「鮎もどき」という料理は、棒状に切った豆腐を油で揚げて蓼酢をかけたもの。つまり細長い揚げ豆腐を鮎に見立てろということで、これはかなり想像力の必要な料理だったのではないかと思われるわけですが…。
 鮎の代わりになるかどうかという点については追及しないでおくとしても、「油揚豆腐」そのものは美味しい。江戸時代に入ってそれまで高級だった油が菜種油などの普及で廉価になったことで、油揚はさらに一般に普及し、そして庶民に人気の食材となっていった。
 焼いて大根おろしとぽんず醤油を添えたり、出汁で煮つけて唐辛子を振ったり、手軽に一品作れるのもありがたい。というわけで、我が家の冷蔵には安売り日にまとめ買いした油揚が大量に入っております。別に我が家はベジタリアンではありませんけれど。 
 

獣は油揚を食べるのか?

狐は油のにおいにつられて油揚を獲りに来るのだと、明治生まれの祖母は言っていた。狐は雑食性じゃないのに、まさか油揚なんて?と私が首を傾げたら、いやいや、本当に祠の前の油揚をくわえて立ち去ったのをみたことがあるんだから、と言い張る。犬か猫を見間違えたのではないかと思うのだが、それとも人里の狐は油揚の味を覚えてしまったということなのか。狐に供えたはずの油揚を、お腹をすかせた猫がかっさらっていくなど、農村の片隅では時折見られた風景に違いない。
 それどころか、鳶が油揚を攫って行くという物騒な話も日常茶飯事で起こっていたようである。文京区の富坂はかつては「鳶坂」と呼ばれていたが、それは鳶に油揚を攫われる名所であったためなのだとか。
 
 さて、狐や狢などの小動物を、鼠を捕獲してくれる稲作の守護者として祀るという風習が日本では古くからあった。狐が住む洞穴、こんもりした雑木林のあたりなどに祠が祀られていたりするのがそれである。
 ちょっと待った~! 稲荷神は宇迦之御魂大神(うかのみたまおおかみ)、もしくは豊宇気毘売命(とようけびめ)、(その他省略)の穀物神であって、狐なんぞを祀ったものではなかろう、というお叱りを受けることもあるが、宇迦之御魂大神(うかのみたまおおかみ)、(その他省略)などの穀物神は、古事記の神道系の話でしょう?
 古い時代に、鼠をとってくれる小動物の塚を祀っていたとしても、それほど不思議はない。鼠はとって欲しい。それには鼠の天敵を祀ってしまうのがよいと考えるのは自然な流れであるはずだからだ。ただし、油揚は昔からあった食品ではないため、古い時代のお供えは油揚ではなく、では何を供えていたのかというと…一説には「鼠を供えていた」とかいう記述もあるのですが、それはちょっと勘弁していただきたいものであります。

澤蔵司稲荷と油揚 

というわけで、「稲荷蕎麦」で有名な文京区の伝通院近くの澤蔵司稲荷(たくぞうすいなり)について書きましょう。澤蔵司稲荷は、おやまあここが都内なんでしょうか、というぐらい緑の多い、まるで異界に迷い込んだみたいなところ。
 これは、江戸時代初期、伝通院で仏典を学んでいた澤蔵司という僧の正体が、なんと狐だったというお話。

 伝通院門前の蕎麦屋が、店を閉めてから売り上げを数えていると、木の葉が混じっていることに気づく。注意していると、澤蔵司が蕎麦を買いに来た日には、木の葉が混じっている。そこで澤蔵司の後をつけていくと、伝通院近くのうっそうとした雑木林の中に消えていき、林の中には蕎麦を包んだ皮が散らばっていた、ということである。人間に化けていることを感づかれた狐は、伝通院の学寮長であった覚山上人に「私は狐である」と、まさかのカミングアウトをして姿を消してしまった。
 
 この話には別説もあって、伝通院の学寮長であった覚山上人は、京都からの旅路で道連れになった沢蔵司という青年を気に入り、入寮させる。彼は成績優秀で、入寮して3年、覚山上人の夢枕にたつ。「我は千代田城内の稲荷大明神であり、かねて勉強をしたいと思っていた長年の希望をここに達した。これより元の神に戻るが、当山(伝通院)を守護して恩に報いる。」と、かなりの上から目線で告げて(神だからしかたないか)、暁の雲に隠れたという言い伝え。あるいは正体を明かしたのは元和6庚申年5月7日の夜で、当時の学寮長は極山和尚であった、という説など。
 いずれにせよ、この沢蔵司が油揚を入れた蕎麦が大好物だったということから、稲荷神社に油揚を供えるようになったのだとか。まあ、正体が狐だろうがなんだろうが、修行僧の身ではベジタリアンになるしかないわけで、実際、油揚はベジタリアンにとってかなりありがたい蛋白質補給食品であることは確かでしょう。
 
 がしかし。江戸城内に稲荷神社なんてあるのか?
 と思って調べてみたら、かつてはあったのだとか。
 室町時代中期、太田道灌の娘が天然痘(疱瘡)を患ったことから京都の一口稲荷神社(いもあらいいなり)を勧請。ただしこの一口稲荷(いもあらいいなり)の「いも」とは、サトイモのことではなく、疱瘡のことで、疱瘡の穢れを洗い流す神社であったようです。この一口稲荷は、かつて京都の巨椋池(おぐらいけ)にあったようですが、現在はありません。巨椋池は伏見城築城に伴って埋め立てられてしまったため。
 そして徳川家康の江戸入府後、慶長11年(1606年)に江戸城の改築により、城外鬼門にあたる神田川の岸辺に遷座。これは現在のお茶の水界隈で、JRの線路脇。これが駿河台の「太田姫稲荷神社」の起源。
 つまり、沢蔵司のお話は、江戸城内に祀られていた一口稲荷が江戸城外へと遷座させられた後のお話で、さらには京都から江戸へと政治の中心が移って行った時期の噂話であるということでしょう。
 澤蔵司は、かつて京都巨椋池にあった神社ゆかりの狐、夢枕に立ったのが旧暦5月7日。5月7日といえば、慶長19年の大坂の夏の陣の最終日。京都から江戸にやってきた稲荷狐が、滅亡した豊臣家の縁日に伝通院の守護を約束するという、まあ、そんなお話であるわけです。
 
 ところで、もともとは上方の寺院などで作られていたと考えられる油揚は、菜種油などの普及に伴って江戸の町で大人気になったわけですが、さらには江戸初期、庶民の間で大流行したものがもうひとつ。それは蕎麦! その2つを組み合わせた「油揚蕎麦」は、当時の人気料理最先端であったでしょう。となると油揚蕎麦に「稲荷蕎麦」とネーミングし、京都巨椋池ゆかりの狐が化けた沢蔵司のお話を広めるという、これは新たな人気料理の宣伝作戦だったのではなかろうか、とも思えるわけですが。
   (占術研究家 秋月さやか)

※写真は油揚。油揚を裏返しにし、うなぎのたれを絡めてフライパンで焼けば、あ~ら、偽鰻に化けます! ぜひやってみてください。美味しいから。鰻資源の保護も兼ねて。













2016年7月17日日曜日

忘れないで、忘れたい、やっぱり忘れられない。花占いではありませんが。

  「忘れな草」はムラサキ科の花で、 儚く青い色の寂しげな雰囲気からなのか、その名前の由来には悲恋の伝説がつきまとう。
 昔、ライン地方で、恋人のために岸辺に咲く青い花を摘もうとした若者が、足を滑らせて河に落ちてしまう。溺れながらも「ボクを忘れないで」と差しだした花…から名づけられたというもの。
 水辺は危険ですので気をつけたほうがよいです。つまり、この花の咲いているところは水辺で足場が悪いからね、という危険シグナルサインとしての命名、戒めとしてのお話なんじゃないかと思えますが。しかし男性にとっては、「できもしないことするんじゃないぞ、溺れるから」という意味を込めて、女性には愛を確かめるために無理難題を吹きかけると大変なことになるぞ、とこれもまた戒めを込めて。
 
 ところで、和製「忘れな草」として登場するのはコマクサ。夏山登山のハイライト的な花ですが、コマクサが生える場所というのは、間違いなく危険な崖です。コマクサが生えているところ、何回か行きましたけれど、高所恐怖症の私にはなかなか辛い場所でありました。ので、もう行きません。

 そのコマクサ伝説ですが、言い寄ってくる相手を諦めさせようとした娘が、「私のこと本気で好きなら、コマクサをとってきて」と若者に告げるのです。コマクサは、危険な鉱高山に生えているのでありました。これで諦めてくれるだろうと考えたわけですが、そうはならず、若者、本気にして山に登り、足を滑らせて帰らぬ人になってしまったというストーリー。しかしこれはコミユニケーションスキルが低すぎの悲劇でしょう? 言いたいことと反対のこと、言ってますよね。
 それどころか、たしかに忘れられなくなってしまうでしょう。だって、一生、その重荷を背負って生きてかなきゃならないんですよ。という意味で、やはり戒めのお話でありましょう。
 
 そして「忘れ草」というのはヤブカンゾウの花。中国の古典「延寿書」に忘憂草として登場し、万葉人は憂さを晴らすために、ヤブカンゾウの花を身につけたのだとか。ヤブカンゾウに、何やら緊張を緩和するようなアロマテラピー効果でもあるのかと思って調べてみましたが、そういうわけではなさそうです。
 ヤブカンゾウはほのかに甘く、食べることもできます。「甘味」には憂鬱を晴らす力があるというあたりから来た伝承でしょうか。だからヤブカンゾウは猪や鹿に、すぐ食べられちゃうんですよ。ホンカンゾウの蕾を干したものは金針菜で、中華料理に使います。キスゲもカンゾウの仲間で、花は甘く食べられるそうです。ですが、ヤブカンゾウはカンゾウ(マメ科)とは異なる花です。漢方薬の甘草はマメ科のカンゾウのほうです。
 
 ただし、大伴家持は、こんな歌を詠んでいます。「忘れ草 わが下紐に着けたれど 醜の醜草 言にしありけり」
(現代語訳大意→忘れ草は(嫌なことを忘れられる草っていうから)、下着につけてみたんだけれど(全然効かないじゃないか)、このオタンコナスのブス草!大嘘言いやがって。)
 下着にヤブカンゾウの花をつけて、ええいこのブス!と悪態をついていたんでしょうかね。いっそ下着になんか着けずに、食べれば良かったのでは? 
 
 「想い草」というのもあります。これはシオン(紫苑・菊科アスター属)、野菊の仲間です。
 中国の伝承ですが、昔、父を亡くした兄弟があり、兄はその墓に忘れ草(ヤブカンゾウ)を植えて辛い思い出を忘れようとしました。でも弟のほうは、墓にシオンを植え、日々、泣き暮らしていました。そしてもうすぐ1年がたつという日、ある晩、夢に鬼(鬼神)があらわれ、「今日から毎晩、夢で明日起こることを教えてやろう」と言われるのです。こうして夢見の力を得た弟は、そのおかげで、幸せに暮らしましたとさ。という話なのですが…いや、このお話はいつまでも過去ばかりみていてはいけないという戒めにも思えます。
 シオンの花を飾ったら予知夢がみられるのでしょうか? 過去を想い偲ぶ夢だけでなく、未来を信じる予知夢が? シオンには「十五夜花」の異名がありますが、それは花が旧暦八月満月の頃に咲くためです。
 
 「都忘れ」は野菊の仲間。承久の乱で佐渡に流された順徳上皇(じゅんとくじょうこう・第84代天皇)が、「この花を眺めれば都のことを忘れられる」としたところからの命名。でも、よく考えると、このお話はパラドックス。忘れたいと思うのは、忘れていないからでしょう? 忘れようとしても忘れられない切なさともどかしさが伝わってくるようなエピソードであります。

 順徳上皇は「いかにして契りおきけむ白菊を 都忘れと名づくるも憂し」という歌も詠んでいるのですが、「どのような経緯であったにせよ、今は縁のあるこの白い野菊を、都忘れと名付けてみたのだが、しかし嘆かわしい(気分が晴れない)」っていう感じでしょうか? 都忘れは紫が好まれるそうですけれど、どうやら白だったようですね?
 
 なお、「都忘れ」は、ミヤマヨメナ(シオンの仲間)のことと考えられています。ヨメナは、春になればその若葉を食し、秋になれば花を愛でるといった野草で、都ではなく、地方の風景に似あう花であったようです。都から遠く離れた地を「住めば都」にはできなかったという順徳上皇。ミヤマヨメナの花を眺めるたびに、宮中で咲き誇る大輪の菊を想い浮かべていたのでしょうか。
 別れちゃった元カノを想い出しながら、目の前の今カノとつきあっている男の悲哀のよう。こういう時こそ、下着に「忘れ草」のヤブカンゾウの花をおつけになるべきだったのではないかしら、と思うわけです。
   (占術研究家 秋月さやか)

※ ヤブカンゾウの花。甘いので、イノシシやシカが食べにきます。下着につける気にはちょっとならないけれど、入浴剤とかならいいかも。


新月の闇の中、レプトケファルスは無意識の海から孵り、幻の大陸をめざす

レプトケファルスは鰻の稚魚。透明な体をしているため、英語ではグラスイール、日本ではシラスウナギ。6月から7月にかけての新月の晩に、深海の底の真っ暗な海の中で孵る透き通った体。それがレプトケファルス。

 鰻はその生態に謎が多く、誰も鰻の卵をみたことがなかったため、アリストテレスは鰻は泥の中から自然発生するとか、テキトーなことを言っていたようですし、日本でも「山芋変じて鰻になる」とか、これまたいいかげんなことが言われていたわけで、鰻の発生がオカルトだったという話です。
 しかし、20世紀に入り、ヨーロッパ鰻の産卵場所はサルガッソ海、日本鰻の産卵場所はマリアナ海溝ということがようやく突き止められました。アリストテレス大先生もびっくりでしょう。
 
 ところで。鰻の話の前にフロイトの話をします。(ちょっと長い説明になるけど、なるべくはしょって書く。)
 私はとにかくフロイトはすごい人だと思うわけですが、天才も天才!と思ったのは、無意識という概念の提唱者であったということ以上に、「人間は本能が壊れてしまった病気の状態で、だから全員、おかしいのだ」というところからスタートしているということを知った時です。
 そう、よくぞ言ってくださいました。エデンの園を追い出されてからの人間は病んでしまったわけで、しかし、エデンの園にはもう戻れないので、カウンセリングとかで、なんとか折り合い付けなきゃならないわけですね。
  
 人の心の中には(意識されない領域としての)「無意識」があると提唱したのはフロイトで、理由がはっきりとしない心身の不調は、この無意識領域に抑圧されたコンプレックスが原因であるとしました。
 コンプレックスは本人とっては(たいていは)不快な記憶であるため、意識なんかしたくないわけですが、でも、無意識下にあるそれらのコンプレックスは、本人の心身になんとなく影響を与えていたり、ある時、意外な方向で運命を操ってしまったりするわけです。
 なぜ人は、自分が望んでもいないことをしてしまうのか。(そして人生を不本意に破壊してしまうのか)。 それは無意識下のコンプレックスが原因だとフロイト大先生は考えますが、ではどうやってそれらを解きあかすのか。それこそ、深海に沈んだ幽霊船をひきあげようというような話です。

 そこでフロイトは夢に注目します。眠っているときは自我が弱まり、外界に対する防衛本能が低下するため、抑圧された願望が開放されて夢の中に自由にあらわれることがあると考えたわけですね。
 つまりは、深海に沈んでいた幽霊船が、海面に浮かび上がってくるようなもの?!無意識とは、実現されない願望の眠る深海のような場所だということでもあります。
 しかし、フロイトがこのあたかも深海のような無意識という概念を思いついたのは、もしかしたら「鰻」が原因じゃないの?と私はなんとなく思ったわけ。

 さて、フロイトが、かつて鰻の生殖腺の研究をしていたというのは有名な話ですけど、
鰻を調べまくった研究者たちは、鰻に性別があるかどうかもはっきりしないと言って首を傾げていたわけです。そして19世紀後半、ジークムント・フロイトは雄鰻の精巣を発見! これで鰻には雌雄があることがわかったわけ。いえ、鰻にカウンセリングしたわけではなく、解剖したわけですけどね。
 が、その後、さらに衝撃の事実が! それは鰻の幼魚はすべて雄で、水質や餌など過ごした環境によって性転換して雌になるものがあらわれるのではないか、ということです。
 それがわかったのはわりと最近のことなので、フロイト先生はそれを御存じないと思う訳ですが…。
 
 ヨーロッパ鰻の産卵場所がサルガッソ海であることを証明したのはデンマークの海洋生物学者ヨハネス・シュミットですが、サルガッソ海といったら、船舶が沈没したり行方不明になる「魔の海」伝説で知られ、だいたいバミューダトライアングルと呼ばれるあたり。
 伝説では、この海域は凪になることがあり、何週間も船が動けずにいる間に船体に海藻が絡みついてしまうとか、無人となった船は、その後も幽霊船となって長い間この海域を彷徨うとか。おまけにリバイアサンが出没するとか。無意識の魔界のようなところですな。
 しかしサルガッソ海に集まるのはリバイアサンではなく鰻なのでありました。ヨーロッパ鰻のサルガッソ海での産卵は、冬から春にかけての新月の晩に行われるということですので、だいたい2月ぐらいかな。
 
 一方、日本鰻の産卵場所はマリアナ海溝付近、つまりグアムのあたりの深海。海の中でもっとも深い海。日本の河川で大きくなった鰻たちは、産卵のためにマリアナ海溝をめざし、6月から7月にかけての新月の晩に産卵し、稚魚はその後、北上して日本の河川をめざすというサイクルとなります。
 
 産卵場所が決まっている魚といえば有名なのは鮭で、鮭は河で孵って海に下って大きくなり、河に戻って卵を産む。なぜ鮭が生まれた河に戻ってこられるのかっていうと、それは鮭が生まれた河の水を覚えているからだという。
 鰻のほうはというと、海で生まれて、河をめざし、そして再び、海に帰るわけですが、しかしそれはやはり鮭と同じように、鰻が生まれた場所の水を覚えているからだろう、と言われているわけです。
 つまり、鰻の祖先はマリアナ海溝付近で生まれたに違いなく、生まれた場所の水を覚えていて、そこに戻って産卵する習性を失っていない、ということ。…しかし、なんでマリアナ海溝?
 
 その昔。太平洋に大きな大陸がありました。その大陸の大部分は、ある時、海の底に沈んでしまうが、沈まずに残ったのが、グアムやサイパン、太平洋の島々、台湾や日本だというわけです。その大陸とはムー大陸。つまり、鰻はかつて、ムー大陸の河川(汽水域)で生息していた川魚であったのではないか、という仮説があるのです。
 ムー大陸が沈んでしまい、やむなく鰻は海を泳ぐことになり、が、本来が川魚であるから、河川を遡る。そして生まれた水を覚えている習性から、産卵には、海に下ってマリアナ海溝に戻っていくのだ、と。
 鰻はとても嗅覚が敏感で、水のにおいをかぎ分け、その嗅覚は犬よりも鋭いのだとか。鰻犬って、ここから来ているんでしょうか?(違うか) ムー大陸の水のにおいに導かれた鰻たちは、6月から7月にかけての新月の晩にマリアナ海溝に集って産卵する。
 
 もしもこのムー大陸説が正しいとなれば、ではサルガッソ海は? サルガッソ海には、かつていったい、どんな大陸があったのか。そこで当然考えられるのが、プラトンがその著作の中で言及したというアトランティス大陸!
 プレートテクトニクス理論に基づいて考えると、大西洋の両岸の海岸線を近づけてもキューバのあたりで大きく隔たりがあり、それはここにかつてあった陸地が沈んだ可能性を想像させるものであり、その陸地とは、アトランティス!
 
 鰻はヨーロッパの河川から大西洋に出て、わざわざメキシコ湾流を逆流して、メキシコ沿岸のサルガッソー海で産卵し、サルガッソ海で孵化したレプトケファルスは、メキシコ湾流に乗ってヨーロッパまで移動するということですが、その不自然な動きから、かつて大西洋上には陸地があり、何らかの原因で、この陸地が消失したためメキシコ湾流がヨーロッパ沿岸に到達するようになり、鰻はその流れに従って、奇妙に思える生態行動をとっているという説が唱えられているわけです。何らかの原因とは、その陸地が沈んじゃった、ということですね。
 
 となると、鰻の記憶の中に、ムー大陸はあるのか?アトランティス大陸は?はたして深海の眠りの中で、レプトケファルスは古大陸の夢をみるのか? 
 新月の夜、鰻たちは深海の底で孵り、そして記憶を呼び覚ましてかの地をめざす。古の失われた故郷を。
   (占術研究家 秋月さやか)

※ この画像は、登録済の素材辞典より。



イクチオヘモトキシンは背徳の味?! 


 鰻(ウナギ)、お好きですか? 鰻と聞いただけで、あの甘い香りのたれの匂いが…記憶の中に煙たさと共に蘇り、バーチャルに鼻をくすぐるぐらい、私も!鰻が好きですよ~。でも、鰻よりも穴子のほうが好きかな~。う~ん、どっちもいいな~。 

 ところで。鰻は生食が不可能な魚。サシミ好きな日本人といっても、鰻を生では食べない。それは何故か。鰻の血液中にはイクチオヘモトキシンという血清毒が含まれているから。
 これは哺乳類にとって有毒な成分で、もしも生鰻にかぶりつけばどういうことになるかというと、下痢、吐き気などの中毒症状を訴え、大量に食べると死に至ることもあるのだというぐらい怖い成分。ちなみに穴子にもイクチオヘモトキシンが含まれているそう。
 しかしイクチオヘモトキシンは60℃で5分以上加熱すれば変性して毒性を失うため、従って、加熱処理した鰻は問題なし! 蒸したり焼いたりした鰻は、まったく安全な食材なのでありました。
 といっても、毒は薬に。薬は毒に。無毒化したといっても、もしかしたらイクチオヘモトキシンには何らかの薬効があるのではなかろうかという気もしないではありませんけどね。だから人々は、鰻を食べたがるのではないだろうか、と。
 
 日本だけではなく、鰻はかつて中世ヨーロッパでは人気の高級食材であったということです。ヒポクラテスは「うなぎの食べ過ぎなどによる肥満は人間の体の最大の敵」と著述しているそうですが、しかし、それは消費カロリーが低い(働かない人たち)の場合でしょう。

 ローマ教皇のマルティヌス4世は、白ワインと蜂蜜の鰻の焙り焼きが大好きで、なんとその鰻の食べすぎで命を落としたという伝説が。。。
 ダンテの『神曲』では、マルティヌス4世は煉獄で大食の罪を償っているという設定になっており、高級グルメ&大食のダブル重罪。
 しかし、「鰻を食べ過ぎて死んじゃった」の詳細については、①含め以下のように多々の可能性が考えられると思うわけで、たぶん正解は④あたりだったような気もするわけですが。

①大食で消化器トラブルから死に至る。それが鰻じゃなくても過度の大食は危険。
②うっかりと生焼けの鰻を食べてしまったためにイクチオヘモトキシン中毒に。
③鰻に限らず高カロリー食材の食べ過ぎでメタボ&高血圧&血液ドロドロに。
④好物の鰻に毒を仕込まれ(好物だから警戒が緩んで)、あっけなく毒殺。
⑤死の間際に鰻食べたいと懇願、それが鰻を食べながら死んだという伝説に。

 さて、マルティヌス4世の戒めがあるとしても、それでも鰻の人気は衰えず。そして 鰻といえば、ロンドン名物鰻料理! ロンドン動物園が閉園になるかも知れないという頃(今から20年ぐらい前)、友人に一緒に行こうと誘われ、ガイドブックでロンドンの食べ物事情を調べましたよ。鰻のゼリー寄せ、そして鰻パイ、食べてみたいっ! (浜名湖のじゃなくて。)
 しかし結局、ロンドンのガイドブックを3日程読んだだけで、鰻パイの空想は終わりました。仕事が忙しく、どうにも無理だ、っていう状況になってしまったから。ああ、幻の鰻パイ。といっても、ロンドンの鰻パイはテムズ河の鰻ではなく、オランダ辺りからの輸入鰻を使っているそうですが。(そしてロンドン動物園は、結局、閉園しませんでした。)
 
 ヨーロッパではヤツメウナギも食べます。ヤツメウナギといっても、これは鰻ではなくまったく別の生き物、ヤツメウナギ科で、なんともグロテスクな生き物でありますが。ヨーロッパではローマ帝国の頃から食され、皮も肉も鰻よりも固い食感であるため、貧しい人々の食料となっていたのだとか。
 ヤツメウナギはビタミンA(レチノイド)を大量に含むので目によいとされ、画面で疲れた目には必須。都内にも何軒かヤツメウナギを食べさせる店があるそうで、タクシードライバーの方々がよく行くそうです。
 フランス、ポルトガル、スペインなどではパイやシチューの材料として用いられ、ヤツメウナギの赤ワイン煮込み「ヤツメウナギのボルドー風 (Lamproie aux poireaux)」は有名で、旬である冬から春の季節限定料理なのだとか。なるほど、夏ではなく、冬から春にかけてね。鰻の旬も、実は夏ではなくて秋から冬の脂がのった時期なんだそうですよ。
 ロシアではヤツメウナギのマリネはザクースカ(冷たい前菜)に用いられるのだとか。マリネね、マリネ。
 そしてなんと。イングランド王ヘンリー1世の死因は、ヤツメウナギ料理の食べ過ぎなんだとか! 食べ過ぎるほど美味いのか? 
 
 というわけで。今年の夏は、以下の2つのメニューにチャレンジしてみようかと思っております。
1・「背徳の鰻、蜂蜜焼きマルティヌス風」
 鰻の白焼きに蜂蜜をからめてオーブンで焼けば作れそうな気がするんですが、胡椒もしくはマスタード風味っぽく。どちらにしろ、鰻にはこってりと甘辛い味が似合う。

2・「穴子のゼリー寄せヘンリー1世風」
 ヤツメウナギではなく穴子でチャレンジ。穴子は煮てゼラチンを加えてゼリー寄せに。そしてキュウリの薄切りを添えたサラダ仕立てはいかがでしょう?穴子とキュウリはあいますよ!
 
 とまあ、鰻を食べるお話を書いているわけなのですが、ユダヤ教の戒律にあるカシュルート(ユダヤ教の食事規定)によれば「水に住むうろこの無い物を食べてはならない」とされているため、ユダヤ教徒はタコ、イカ、エビ、貝、イルカ、クジラなどは食べちゃだめ。もちろん鰻も。イスラームでもそうみたいです。
 ただし、近年、鰻のあのぬるぬるした皮膚の下には細かい鱗があるということが発見され、鱗の無い魚から鱗のある魚に昇格したようです。しかしおそらく、戒律に厳しいユダヤ教徒は食べないと思われます。そもそも、鰻の血液は緑色だったでしょう?

 鰻の大量消費国といえばそりゃあ日本ですが、しかし、鰻を食べてはいけないという地域があるのは御存知でしょうか?
 たとえば三島。湧水の里で知られ、湿地も多く、古くから鰻が自生していた地域ですが、鰻は水神様の化身となるため、三嶋大社の神池の鰻の捕獲は固く禁じられていたということです。1697年(元禄10年)の「本朝食鑑」に記載されている「耳鰻」は、鰻にちょこっと耳というか角が生えたよう形で、これが明神の「使い魔」。。。じゃなかった「お使い」でございます。しかしこのような鰻は実際にはいないそうで、鰻ではなく、サンショウウオの姿を見間違えたのではないか、という説が有力ですが。
 
 とにかく三島では鰻を食べなかったのだそうですが、明治維新の時に薩長の兵が三島に宿泊、勝手に鰻を捕まえて食べてしまったのだとか。なのに神罰が当たらなかったため、それ以降、三島の人々も鰻を食べるようになったということです。
 たぶん昔、生鰻を食べた人が死んでしまったために「食べてはならない」という戒めが生まれ、それがずっと語り伝えられていただけなのかも知れません。とはいうものの。私はきっと三島で鰻は食べないだろうと思います。なにせ信心深いので…というのは嘘で、せっかくの昔からの言い伝えなんだからそのぐらい守ってもいいんじゃなかろうかというのと、薩長連合軍が禁忌を破ったというのがなんだなあ、というあたりで(三島では)食べないと決意!
 といっても結局のところ、罰当たりな食材ほど美味しいのかも知れませんけどね。   (占術研究家 秋月さやか)

※ 我が家が常食にしております鰻はこれ!(って、鰻ではないのですが)



2016年6月29日水曜日

 「逆さ水」ってなに? このお題、法事などで親戚がお集まりの際のお茶請けにぜひ。

 水と湯の区別は極めてつけにくいのですが、一般的には室温以下のものが「水」で、何らかの方法を用いて室温以上に温度を高めたものが「湯」という考え方でいいのではないでしょうか。
 
 沸騰した水を「百沸水」と称します。
 この名称、水が百度で沸騰するからかと私は思ったのですが、そうではなく、百個ぐらいの大量の泡がふつふつと出て煮えたぎり、沸騰した水というような意味からきているようです。といっても、「水」じゃなく「湯」ですよね、これは。
(参考文献:人見必大著『本朝食鑑』平凡社東洋文庫)
 
 水を沸騰させることで水中の雑菌が死滅します。古代中国の神話に登場する神農は、水を火にかけて沸騰させてから飲用とすることを人々に教えました。

 
 しかし、沸騰している湯の温度を下げてからじゃないと飲むことはできません。しばらく放置し、温度が下がるまで待つか。もしくは水を入れて温度を下げるか。

 水を入れて温度を下げる場合ですが、容器にまず湯を入れ、それから水を入れろ、と言われます。聞いたことあるでしょうか?

 しかし、ガラスの器に湯を入れたら割れます。従って、ガラスの器でぬるま湯を作ろうとすると、水を入れてから湯を注すしかありません。
 と、そのようにしていたところ「縁起が悪い!」と注意されたという話をたまに聞きます。「そんなことやっちゃだめ!」と、婚家の小姑にすごい勢いでとめられ、グラスをひったくられて水を捨てられたという友人の話を聞いたことがありますが、まあ、日本国中で似たことは起こっているんだろうなあ、と。
 
 なぜ縁起が悪いのか。それは水を先に入れ、湯を混ぜて作るものが「逆さ水」と言われるからです。

 湯の温度を下げる場合は、本当は沸騰させた湯を放置して温度を下げるべきなんですが、しかしながらすぐに温度を下げたいなら、湯の中に水を入れろ(ただし新鮮な)というように、昔から言われており、それが湯に水を混ぜて温度を下げる場合の正しい方法であるとされているわけです。ちなみに、いつ、誰がそういったのかはわかりません。

 正しくない方法「水に湯を入れる」をしてはならないということですが、正しくない方法のことを逆法と言います。といっても、逆法には逆法なりの用い方があって、忌事に用いるのです。つまり逆法で水の温度を上げるという手段は葬儀などの忌事における「湯潅」で用いられます。
 
 なぜ「湯が先で水が後」が正しいのか、理由を考えてみました。しかし考えてもよくわからず、子供の頃の私は、この問題を身内に聞いて回っていました。「昔から言っているから」という無難な回答ではない、ほお、と思える回答を以下に示します。

1・冷たい水は比重が重いため下へ沈んでいくから、混ざりやすくなる。温かい湯を上に注いでも、湯は下へは行かず、混ざりにくい。
(と、祖母は言いました。なるほど。これが生活の知恵で、反対のことはするな、という戒めが逆水。というわけですね。たぶんこれが正解なのでしょう。)

2・風呂を考えろ。風呂は湯を沸かして入るのだ。熱くなりすぎたら水を入れてうめる。風呂は生者が入るものであるから、死者の湯潅はこれと反対にしただけである。
(おお、これも説得力ありありで正解っぽい。昔は、遺体は桶に入れて埋めましたから。)

3・湯の中にちょろっと水を入れることは許されても、水にどばっと湯を入れることなど、湯を捨てるようなことで許されない。燃料代を考えてみよ。
 苦労して沸かした容器の中に水を混ぜるほうが無駄がない。大量の水に湯をちょろっとさしたところで、すべて水になってしまうだけで、エネルギーの損失だろうが。
(生活の知恵という意味でこれもアリなんじゃなかろうかと。)

 たぶん1が正解。でも、2も3もありという感じがします。

 「縁起いいとか悪いとか、人はさんざん口にするけれど、そういうことを気にしすぎると、あの人見ててそう思う~」
 
 さて、さきほど、グラスに水を入れてから湯を注いだら→「そんなことやっちゃだめ!」→小姑とんできてグラスの水を捨てた、という友人の話を書きました。
 この場合の対応策としては、「申し訳ありません、うっかりと」と謝ることです。「だってグラスが割れるから」は、NG返答。どう考えても揉めることにしかなりません。というか、そもそもグラスに湯を入れちゃだめだよ。どうしても入れたいなら耐熱ガラスにしてください。
 
 やれ迷信だとか迷信じゃないとか、迷信合戦の勝敗は、ぜったいに決着つきません。宗教戦争並みに白熱化するだけです。子供のころから言われて育った「縁起が悪い」は、ぬぐいようがないもので、理屈ではないからです。
 家という伝統的グループの秩序維持のルールの1つに、「縁起の踏襲」というのがあります。この縁起というのはだいたい伝統的に踏襲されるもので、その中に育った人にとっては「常識」」です。
 ですが、部外者にとっては何が「常識」なのかはわかりません。私、関東の縁起にはけっこう自信があったのですが、他地域の縁起には意外なものがありまして、やはり婚家の法事などでは「え?白と黄?え?白と緑ではだめでございますか?」などと戸惑うことがあります。
 親戚って、冠婚葬祭のときには必ず集まりますよね。法事の席で、「水が先か湯か先か」、知らないふりをして、婚家の方々に訊ねてみてください。たぶん正解はどなたかが教えてくださるでしょう。そのついでに、「どのぐらい縁起を気にかける一族なのか」も観察できますので、ぜひ。
 
 ちなみに。「湯潅(ゆかん)」は、ご遺体を湯で清める儀式ですが、これは「灌仏」から来ているんじゃなかろうかと思います。「灌仏」は、仏像に香りのよい水を注ぎかけることです。
 ですが、ゆせん(湯煎)ではありませんので、お間違えなきよう。これ間違えると、確実に顰蹙を買います。(注・ゆせんとは、食材を入れた容器のまわりを湯で温めること。)

 なお、写真は「道志 道の駅」で撮影。
                            占術研究家 秋月さやか



2015年7月27日月曜日

薬用植物というより魔界植物。閻魔大王も江戸っ子も、みんな大好きさ、蒟蒻

 日本のお盆事情はまことに奇妙で、本来は旧暦七月十五日に行っていたものを、明治の改暦以降、7月15日という日付はそのままに、新暦(グレゴリオ暦)で行うようになってしまった地域がある。一方、農村や地方では、月遅れ盆として新暦8月15日に行うようになったため、7月15日と8月15日の二系統が生じた、これが日本のお盆の特殊事情です。
 ということはさておき、盆の料理は祖霊のために作るので、基本的には精進料理。がんもどきや蒟蒻などが大活躍。…が、しかし。蒟蒻って、もともとは薬用植物だったんですよ。

 東南アジア原産の蒟蒻が日本に渡ってきたのは6世紀の頃で、仏教の経典などと一緒に渡来したものらしい。当時は、貴族など身分の高い金持ちしか口にすることができなかったという食材。しかも薬用。コンニャクマンナンを使用したダイエットか?そういえば、平安貴族には糖尿病が多かったという説があるから…という連想をするのが、現代人の発想なのだろうが、そうではない。蒟蒻の効用はというと「腸内の砂おろし」だそう。
 
 祖母も、そんなことを言いながら蒟蒻の煮物を食卓に並べていたことがありましたね。「砂おろしって何?」と、私は聞いたことがある。なんで腸に砂なんて入っているわけ?鶏でもあるまいに。と聞いたら「腸に詰まった汚れを取り除く」と祖母は言いましたが…もしかしてそれは宿便? 砂の意味がいまいち判明しないのですが、とにかく「砂おろし」だそうで。が、しかし。現代では、むしろ蒟蒻を食べ過ぎて腸に詰まるほうを心配したほうがいいような気もします。
 
 蒟蒻の作り方ですが、本来は収穫した蒟蒻芋を生のまますりおろし、お湯を混ぜて練り、そこに灰を混ぜて固めたら茹でる。簡単にいうとそんな感じだそうです。(そんな感じだそうです、というのは、実際にやったことがないため。)
 
 蒟蒻は、荒れ地でも出来るということで、作物に乏しい村などでよく栽培されたのだとか。肥料はそれほどいらないけれど、水はけが悪いと育たず、収穫するまでに3年はかかるという。冬になると芋を畑から掘りあげて保存し、春に再び畑に植えて育てる。これを繰り返し、3年たつとようやく収穫できる大きさになるのだとか。掘り上げた芋の中で3年たったものを蒟蒻にする。そう、晩秋に掘り起こした芋をすりおろして作るのが蒟蒻。だから、本来は冬の食材だったというわけ。
 
 蒟蒻が大人気となって巷に広がったのは、江戸時代に入ってから。人気の理由は、あのぷにょぷにょした食感にあったらしい。また、昔は高貴な人しか食べられなかった薬用植物だったというのも、人々の興味を惹きつける要因だったのかと。江戸時代、「蒟蒻百珍」という料理本が発売されますが、これは「豆腐百珍」の蒟蒻版。
 
 江戸では「芝居蒟蒻芋南瓜(しばい、こんにゃく、いも、なんきん)」とまで言われたらしく。これは女子が好む物だそうな。といっても、井原西鶴(1642年-1693年9月9日(元禄6年8月10日)は「浮世草紙」で、「とかく女の好むもの 芝居 浄瑠璃 芋蛸南瓜」と記しており、「蒟蒻」がないことからすると、井原西鶴は蒟蒻嫌いだったのかも…。
 
 そして江戸の町で、蒟蒻がバカ売れしたのは、富士山の噴火のおかげ。蒟蒻は「腸内の砂おろし」効果があると信じられていたため。1707年(宝永4年)将軍綱吉の治世、富士山の噴火で江戸の町にも火山灰が降り注いだわけですが、その火山灰を体の中から出すのに効果があると信じられたのが…「蒟蒻」。つまり、一種の健康食品みたいなものとして認識されていたということ。

 ところで、古くは蒟蒻は冬の食物でありました。それは蒟蒻芋の収穫が秋だったから。
さらには蒟蒻作りは含まれるシュウ酸のせいで手が荒れるので、一般家庭で簡単に作れるものではなかった。そして作った蒟蒻は、日持ちせいぜい2~3日。
 が、その蒟蒻、冬だけでなく手軽に食べられるようになったのは、中島藤右衛門(1745~1825)のおかげ。中島藤右衛門は、茨城県北部の人であるが、乾燥した芋が腐らないことに注目し、15歳から蒟蒻を乾燥させて粉にする実験をはじめ、見事製品化にこぎつける。つまり、こんにゃくの製造革命を起こしたわけです。蒟蒻粉は保存は効くし、持ち運びにも便利。そしてすりおろす手間も省けるというわけで、更に広く普及していくのでありました。

 盆に蒟蒻を食するようになったというのは、たぶん仏教と蒟蒻の関係性、精進料理に使用するあたりからかと思われます。閻魔様は、盆で亡者が地上に帰っている間はお仕事お休みなのだそうですが、盆の食材を仏前に供える関係性から、蒟蒻が閻魔様の好物ということになっていった可能性はあります。
 
 「蒟蒻閻魔」は、文京区にある源覚寺に安置されている閻魔像ですが、蒟蒻閻魔の名前の由来は、宝暦の頃(1751年-1764年)眼病を患った老婦人が7×3=21日間の参籠をする。すると満願の日の夢に閻魔大王が現れ、「私の片方の眼をあげよう」と告げた。目覚めてみると老婦人の眼は治り、代わりに閻魔像の片目が濁っていたという。老婦人は、自身の好物である「蒟蒻」を断ち、閻魔像に供え続けたというお話。そこから「蒟蒻閻魔」という名前が有名になったわけです。いかにも蒟蒻が江戸で人気の食材だったということを漂わせるお話であります。
 
 蒟蒻は地下茎(芋)でも増えるし、種でも増える植物ですが、蒟蒻に花が咲くのは夏。蒟蒻の花はたいへんに臭いという。ラフレシアみたいな匂いで蝿がたくさん寄ってくるのだとか。だから、スマトラオオコンニャクには、(死体花)という和名がついているぐらい。小石川植物園などにスマトラオオコンニャクの花を見に行った方もおられましょう。つまり、蒟蒻は地下冥界に芋を作り、腐った匂いをまき散らす花なのであります。
 しかも、生のまま食べると毒。シュウ酸が大量に含まれているので。まあ、芋はたいていがそうですが、害虫を寄せ付けないためにシュウ酸を含んでいます。そのシュウ酸を水にさらし、灰汁を混ぜ、いわゆるアク抜きをしてようやく食材にできるわけです。生の蒟蒻を食べるのは厳禁。時々、生芋を食べてしまい、病院に駆け込む方がいるそうですので、気をつけましょう。生芋は素手で触るのもやめたほうがよく、とにかく危険な食材なのですね。蒟蒻を乾燥させて粉にした蒟蒻粉は、生芋ほどの破壊力はなく、攻撃性がかなり低下しているということですが、それでも素手で蒟蒻を作るのはやめたほうがよいそうです。花は臭く蝿が集まり、地下には毒の芋。ああ、これではまるで魔界植物ではありませんか。まさかそこから…閻魔様のお供え物になったというわけではない、とは思いますが。
 
  さて、中島籐右門は、茨城県北部の山方町の蒟蒻神社に祀られております。山方町は私の母方の曾祖父が暮らしたことのある地で、子供の頃に墓参に行ったことが何回かあります。あれは寺の山門の百日紅の花が満開の頃でしたから、7月だったのでしょうか。墓の移転で親戚一同が集まり、たぶん寺の本堂で会食をした記憶があります。在の寺ですから、お寺さんで食事を支度してくださる。そこに蒟蒻の煮物がついていまして、ご住職が蒟蒻に手を合わせてから召し上がっておれらる。ずいぶんと信心深い方だと思ったら、「縁あって山方塾に住まっておられた方の御供養ですから、蒟蒻には手を合わせていただいて」などとおっしゃっている。「こんにゃく?」と聞いた私に、ご住職は中島籐右門のお話をしてくださった、というわけです。その神社、どこにあるの?と祖母に聞きましたら「山奥。」だとか。寺の山門まで辿りつくよりももっと多くの階段を上らないといけない山の上の神社だと、祖母は私にそう説明しました。
 
 子供の頃は蒟蒻なんてそんなに好きじゃなかったんですが、最近、蒟蒻を出汁と鷹の爪1本入れて煮含めたのが、しみじみと美味しいと思うようになりました。そういえば、祖母は墓を移転したことをずいぶんと悔やんでいましたっけ。そういうわけで、私は蒟蒻神社にはまだ行ったことはありません。合掌。            (占術研究家 秋月さやか)



※ 向島百花園の蒟蒻。通常、畑で栽培している蒟蒻と同じ種類。5月の半ばに咲いたとかで、行った時にはもう茎は枯れていた。植えてから5年ぐらいしないと咲かないそうで、普通の畑では花は咲かない。




※ 鷹の爪は、16世紀以降に入ってきた食材なので、蒟蒻の唐辛子煮というのは、比較的新しい料理であるといえそうですが。


     *****************
↑ こちらのブログでは、食材をテーマに書いています。
↓ 秋月さやかの占術解説エッセイ(無料)は、以下のサイトでどうぞ。
http://rakuten.moonlabo.info/moon/
「秋月さやかの月と星の占いメッセージ」楽天あんしん支払い対応サイト、一部無料表示メニューあり。
     *****************



2015年6月6日土曜日

桑の実のアントシアニンは熱き血潮、唇の色。恋せよ乙女、その輝きが褪めぬ間に

 「ロミオとジュリエット」を観たいと思って「ぽすれん」で探してみた。1968年、フランコ・ゼフィレッリ監督の作品。その前に、いったい何本のロミオとジュリエットが作られたことか。でも、あのフランコ・ゼフィレッリ監督の作品が最高傑作であることは間違いない。

 ジュリエット役は、かの有名なオリビア・ハッセイ。ロミオ役はレナード・ホワイティング。シェイクスピアに忠実に演出するのなら、2人は16歳と14歳。自分の役柄を完全に理解して演じるなんて、できるわけない年頃かと思う。でも、理解なんてできないという部分もまた、魅力なのだろう。そのあたりの計算は、すべて監督さんがしているわけだ。
 
 私は恋愛映画が好きなわけではない。どっちかっていうと面倒くさいのであまり観ない。しかし、ゼフィレッリ監督の作品は別格、それに、ロミオとジュリエットの原典となっているギリシャ神話のピュラモスとティスベのテーマは、恋愛というより、人の想いの矛盾というか・・・。
 
 さて、ギリシャ神話(ギリシャ悲劇)のピュラモスとティスベのお話はというと、隣同士の未婚の男女が、お互いの姿を見てひとめぼれ、夜な夜な壁越しに愛をささやき合うところからはじまっている。堂々と逢うことができず、壁越しにささやきあう状況は、何やらネット越しのメール恋愛のような。その想いが募って、郊外でデートしようという話になる。妄想が想いを加速させるのである。
 
 ロミオとジュリエットの最初の出会いは「仮面舞踏会」。
 どんな人なのか、妄想をかきたてられるジュリエット、そして、な・な・な・なんと。ロミオは敵の家の息子だった!禁じられた愛。そう、そのまま諦めればよかったのに。ときめきも人の噂も75日、初物は75日たてば旬を過ぎておしまいに。
 
 しかし有名なバルコニーのシーンで、ロミオは聞いてしまう。名前(家)さえも捨てて結ばれたい、というジュリエットの生身の独白を。いや、妄想なんですよ、これは。乙女の妄想。
 とはいうものの、ネグリジェ姿の乙女が訴える熱き血潮の滾り。ああ、そんな想いを耳にして、自分を止められる男がいようか。(たぶんいない。)
 それが、2人の悲劇の始まりである。聞かなければよかったのに。そう、想いが通じてしまったところから、悲劇は始まるわけです。
 
 ロミオとジュリエットの舞台は14世紀のイタリアの都市ヴェローナ。ヴェローナの支配層は教皇派と皇帝派に分かれて争っていたというので、敵同士の家柄が登場するのに最適の地だったようである。
 現在、ヴェローナには「ジュリエッタの家」というのがあるという。観光ツアー必見の場所。ただし、ジュリエットは実在の人物ではないので、これは架空の家なのでありますが。
 そのジュリエッタの家にはバルコニーがあるのだが、もともとこの家にはバルコニーはなく、後から付けられたのだという。しかし、写真で見る限り、よじ登れない感じのバルコニーで、ちょっと不自然。と思っていましたら、そのバルコニーは古代の石棺を使ったものなのだと、FB友達の文学研究者氏から教えていただきました。おお、石棺。なんだか不幸な恋の物語にふさわしい。
 
 年配者からすると「情熱のままに突っ走る愚かさ」に、ちょっぴり羨望のような感覚を抱くこともあるわけですね。若い、無邪気(愚か)、陶酔。これはすべて私にはないものだわ。まぶしく切なくもどかしく。そして一瞬。ああ、最高ではないですか。
 
 シェイクスピア作では、ラマスデー(8月の初め)にジュリエットが誕生日を迎えることになっており、その後、舞踏会が行われるので、これは夏から秋へと向かう時期の話になるわけだ。

 しかし、ギリシャ神話(ギリシャ悲劇)のピュラモスとティスベのお話はもう少し前の時期の設定である。なぜなら、この話には桑の実が登場するからである。

 恋人同士は、郊外の桑の木の根元で待ち合わせをすることにした。彼女が先について待っているとそこに獅子があらわれる。彼女はびっくりして逃げる。逃げる時に、スカーフを落としてしまう。獅子は彼女のスカーフを引き裂く。するとそこに、桑の赤い実の汁がついてしまう。その色がまるで血のようで、後からやってきた彼は、引き裂かれたスカーフが血まみれになっていると思い、彼女が獅子に殺されてしまったと早とちりして、命を断ってしまう。悲劇というより…困った喜劇のようなお話なのである。
 このお話を原典としてシェイクスピアが書いたのがロミオとジュリエットなのですよ。
 
 さて、桑、マルベリー (Mulberry) の実が実るのは、夏至の頃である。種類にもよるとは思うが、山桑はだいたいその頃。桑の実は熟すると赤から濃紫へと変わる。この赤い色素はアントシアニンである。アントシアニンは抗酸化物質であり、pH によっても色が変化する。ポリフェノールも含まれているので、心臓病を防ぐとか、肝機能を助けるとか、若返り効果があるとか、まあ、そのように言われる。命の実…というようなイメージなのか。
 
 マルベリーは濃紫色を意味する色名でもあるが、その語源は桑。赤い桑の実は陽の光に透き通って綺麗だが、かなり酸っぱく、食用にはまだ適さない。桑は、その色が濃紫になってから摘み取るのである。指がまるで血にまみれたようになる。私は桑の実を摘んで洗い、ガラス瓶に入れて砂糖をまぶす。しばらく漬けておくと、濃紫のジュースが出てくる。これはジャムにしてもよい。

 桑の実を摘みながら、私はいつもロミオとジュリエットの物語を思い出す。桑の実が実る夏至の頃。太陽は輝き、鳥は歌い、風は香る。すべてに命の勢いがある。しかし、この美しい景色も、あと75日もしないで萎れていくのだ、と。そう思えば、すべてがまぶしく切なくもどかしい。この一瞬。
 桑の実の色が、あたかも私に命の輝きを蘇らせてくれる秘薬のような、なんだかそんな気がしてくる。熱き血潮のアントシアニンの果実よ。   (占術研究家 秋月さやか)

参考文献:ピュラモスとティスベの物語→「ギリシャ神話小事典」バーナード・エヴスリン 小林念訳
写真は箱根ビジターセンターで撮影。