2016年12月30日金曜日

年越しに必要なのは、屠蘇と餅と三つ肴(だけ)

 おせち料理って、なんであんなに(値段が)高いのでしょうか。


 しかもカロリーオーバー、塩分も糖分もオーバーメニューとしか思えず、たとえば糖尿体質の方などにとっては決してめでたくなどはない、おすすめできないという雰囲気。私は糖尿体質ではありませんが、しかし、おせち料理は3口(みくち)でよろしい。いや、なくてもいい。おせち料理、それほど好きではないんですよね、私。もともと、三の重の煮物さえあればいいという感じですから。
 
 えっ、おせち料理がないと正月じゃないでしょ、めでたい感じがしない~、とかって言われそうなので、じゃあ年越しって、そもそも最低限、何があればいいんだ、(なくてもいいものはなんだ?)と考えてみたいと思います。
 
 おせち料理の起源を遡れば、それはやはり宮中で、奈良時代に行われた節会(せちえ)に出された料理、節供(せちく)。節会(せちえ)の儀式に供された食事というわけですが、ただしそれは重箱に詰まったかまぼこなどではなく、膳に高盛になった飯とか、れんこんとかごぼうとかだったようで、つまりは神饌。
 おせち料理の歴史はもちろん調べたのですが、あまりにも長すぎるので、とりあえず省略しましょう。

 いきなり結論いきます。

 おせちの基本は三つ肴。屠蘇と餅と三つ肴があれば年は越せる、というのが私の持論であります。

というわけで、餅買って、屠蘇散を薬屋でもらって、あとは三つ肴さえあれば。

 で、三つ肴ってなんだ、ということですが、読んで字のごとく、三種類の肴です。

 現在これは、一般的には数の子、田作り、黒豆、です。


 しかしこの組み合わせはたぶん、江戸時代に入ってからでしょうな。
 

 まずはいちばんお高い鯑(数の子)。


 またまたいきなりですが、これ、三つ肴に必須というわけでもない、ということです。
 干し数の子は江戸時代に入ってから庶民の間で流行した食材で、当時は廉価な食品だったので、庶民が正月に好んで食べたのだとか。八代将軍吉宗公が、おお、数の子って安いから倹約によいということで、数の子を正月に食べるのを推奨したという話をどこかで読みました。ただし、当時の数の子は干し数の子を戻したもので、今みたいな塩数の子ではなかったそうですが。

 以下、文字数稼ぎに、数の子の縁起を書いておきます。
 数の子は鰊の卵、一腹にたくさんの卵がつまっていることから、子宝に恵まれますように、子孫が繁栄しますように、との願いを込めて。じゃあ実際、あの小さなぷちぷちがどのぐらい入っているんだ、ということですが、鰊のひとはら(二本でワンセット)は約6万個前後の卵を持つということです。必須脂肪酸であるEPA(エイコサペンタエン酸)を豊富に含んでいます。
 ちなみに、塩数の子の塩抜きですが、塩水に入れて一晩、水をかえてもう一晩。念入りにやりたい人はもう一晩、薄い塩水に入れて塩抜きしてください。真水はNGです。塩は塩で抜くんです。それから濃い目の出汁醤油に漬け込む。

 でも、数の子でなくてもいいんですよね。だって、加賀前田家の正月膳『日本の行事料理』(タイムライフブックス1974年刊)には、数の子は見当たりませんから。
 だから、数の子の代わりに卵焼きでも伊達巻でも別にいいじゃないかな~とは思います。
 

 はい、お次は田作り。

片口鰯の稚魚を素干しにしたものを、空煎りする。えっ?あの甘辛いタレは?って言われそうですけど、あのタレはなくてOKですよ。
 しかも、2匹でOKです。あのべたべたした小魚を大漁に作る必要はございません。魚はもちろん多産の象徴で、2匹っていうのは、そういう意味でしょう。
 また片口鰯は、昔から田畑に入れて肥料としたため、「田作り」と呼ばれます。田作りを入れた田畑は、土の栄養が豊かになり、豊作となったので、今年も豊作に、という縁起担ぎで食べるようになったとされています。カルシウムが豊富ですから、体にもよろしい。しかし(繰り返し書きますが)、私はあの甘いタレが苦手なんですけどね。ま、普通の煮干しを2匹でもよござんす。縁起担ぎの意味では、それでOKではないでしょうか。
 
  さいごに黒豆。

 加賀前田家の正月膳には黒豆が載っていますが、これ、煮豆などではございません。硬い黒豆が5粒。昔は元旦に硬い豆を食べて、歯が丈夫でありますように、と縁起を担いだのだそうです。

 豆の中でも一般的なのが大豆でしょう。そして小豆、黒豆。
 いずれも痩せた土地でもよく育つのは、根につく根粒菌が窒素を作り出すためで、たんぱく質に富み、「畑の肉」と呼ばれる重要な食料。大豆は節分の煎り豆になり、小豆は小正月の小豆粥。そして元旦は黒豆、と考えるとわかりやすくないですか?

 ちなみに、関西では黒豆はふっくらと、関東では黒豆はしわしわになるまで煮るとか書いてある文献もあったのですけど、関東って広いですからね。私の母方の祖母は北関東の出ですが、黒豆にしわを寄らせないように煮るのは大変だと言っていましたよ。
 
 そもそも。地域によって三つ肴はいろいろと違うもので、島津藩では三つ肴の黒豆はNGなんだとか。理由は島津のお殿様は江戸がお嫌いで、江戸の正月に出てくる黒豆は嫌じゃ、正月から黒いものなんぞ縁起悪いだろうが、ということで島津藩では黒豆NGになったのだそう。

 庶民は煮た黒豆を食べていたでしょうけれど、大名屋敷ではおそらく加賀前田家のように四条流にのっとった正月膳を用意していたんじゃないかしら、従って、硬い黒豆だったんじゃないかしら、と思う訳です。
 黒豆禁止令を出したのがどの殿様であったのかはわかりません。たぶん、28代当主の島津斉彬公でしょう。御正室の恒姫は、徳川斉敦の娘ですから。あるいは5代藩主島津継豊公。徳川綱吉の養女である竹姫を娶り、江戸将軍家と縁戚関係になっているため、もしかしたら万事、江戸流を押し付けられて嫌になってしまったのかも知れません。(継豊は隠居した後、国元に帰ったのですが、竹姫は江戸に居続け、別居生活だったし。)
 
 なお、加賀前田家の正月膳をみますと、田作りとするめ(するめの飾り切り)が載っているようです。数の子の姿はまったく見当たりません。
 
 というわけで。三つ肴どころか、黒豆(畑の幸)と、田作り(海の幸)さえあればいいんじゃないかしら。3つにしたければ、伊達巻か紅白かまぼこでも付ければOKではないでしょうか。
 正月に飽食したくない方も、参考にしてください。

        (秋月さやか)



参考文献:『日本の行事料理』(タイムライフブックス1974年刊)

2016年9月24日土曜日

勇者ミカエルは、万能薬ショウガオールを手に入れ闇のドラゴンに立ち向かった! 

 生姜の原産地はインドであろうと言われています。生姜は、カレーに使用するスパイスであるターメリックなどの仲間。

 乾燥生姜は、古くからヨーロッパ、古代ギリシャやローマに渡って薬として利用されていたということですが、ヨーロッパでは生姜が生育しにくかったため、産地であるインドからの輸入品。つまり、生姜はオリエントの味覚ということ。

(東方見聞録を書いたマルコポーロが、インドで初めて生の生姜を見たというような話が記載されているぐらい。)

 ちなみに、14世紀のイギリスでは生姜は大変な高級品で、1ポンド(約450g)は羊一匹と等価だったということである。

 現在スーパーで売っているひね生姜は、小袋ひとつ、だいたい80g~100g。ひね生姜を乾燥させると、水分が抜けて5分の1から6分の1ぐらいの重さになるので、ということは、450gの乾燥生姜を作るには2~3㎏ぐらいのひね生姜が必要。
 ひね生姜1袋。安売りなら150円ぐらいで売っているんでしょうか?(産地指定などにこだわらないとした場合)。ということは、ひね生姜3500円分ぐらいを乾燥させれば、羊1匹が手に入る? メェエエ~
 とまあ、当時はそのぐらい乾燥生姜は高級品だったということですね。
 
 そして9月29日の「ミカエル祭(Michaelmas)」。
 つまりは秋分祭が起源だと考えられるこの祭典の主役は大天使ミカエルで、ミカエルは剣を持った有翼の勇ましくりりしい姿でドラゴンを退治するスーパーヒーロー、勇者。
 この場合のドラゴンは、疫災の具現化みたいなもの。一説によればミカエルは堕天使サマエル(もしくは闇のドラゴン)と双子の兄弟であり、堕落したサマエル(ドラゴン)と争う宿命を背負っているのだとか。
 それは、光と闇が鬩ぎ合うという秋分の性質を意味しているもので、そのためミカエルは、右手に剣、左手には天秤秤を持つ姿で描かれることもあるわけですが、天秤っていったら。そう、アストレイアの天秤。

 疫災のひとつには病があるわけですが、昔は、病は悪魔(魔物)によって引き起こされるものでありました。
 
 つまり、体内の免疫系がミカエルで、感染症がドラゴンというような感じなんでしょうか。となると、免疫系のミカエルを助けるのが、エリクサーとしてのジンジャー(ショウガオール)!
 そう、大天使ミカエルは、万能薬のショウガオールを手に入れて、闇のドラゴンに立ち向かう!

 もしかしたら、桃太郎の黍団子みたいに、ジンジャークッキーをやるからドラゴン退治のお供をしろと仲間を集めていたんじゃなかろうか・・・(というのは嘘ですが。しかし、中世ヨーロッパでは、ジンジャークッキーは高級品だったことは間違いなく。


 とにかくそういうわけで、ミカエルマスの門前市では生姜が売られる。これがヨーロッパの9月の風物詩ということです。

 おや、芝明神の生姜市みたいな。時期も9月、ほとんど同時期ではないですか。
 しかし、ミカエルマスに並んでいるのは、芝明神のように生の生姜ではなく、乾燥生姜という違いはありますが。

 乾燥生姜の香りは、新鮮なシネオールの香りとはちょっと違う感じ。ジンゲロール(体の余分な熱を取り、体温を下げる)も、ショウガオール(体を温める)に変化しているわけですし。
 乾燥生姜は、これからやってくる寒い冬を乗り切るために必要な薬でもあったのでしょう。

 ヨーロッパでは、生姜を料理に使うことはあまりないようです。ジンジャースープなんていうレシピは聞いたことがありませんし、いっそ、ミカエルマスにはガチョウのジンジャー煮込みでも作ってしまえばいいんじゃないかと思うわけですが、なぜかジンジャー煮込みもない。

 ヨーロッパで生姜を使った食べ物といったら、まずはジンジャーエールでしょうか。
 昔は、エール(アルコール分の強いビール)の中に乾燥生姜をスパイスとして入れた飲み物であったようです。(今では生姜パウダーをサイダーの中に入れたもの、つまりアルコール抜きがジンジャーエールと呼ばれていますが。)
 
 そしてジンジャークッキー。これはジンジャーパウダーを練り込んだクッキー。さらにはジンジャーシュガー。
 といっても、ジンジャーシュガーは、伊勢土産の生姜板とはちょっと違う。生姜を薄くスライスして、砂糖を入れて煮詰めたグラッセを乾燥させたもの。
(ひね生姜をスライスして茹でこぼしてアクを抜き、砂糖を混ぜてゆっくりと煮詰めて作ります。)
 
 朝夕、冷えこんでくる季節にはジンジャーエールが喜ばれたに違いないし、ジンジャークッキーやジンジャーシュガーも、紅茶のお供としての「体にいいお菓子」だったのでしょう。

 神社とか教会とか、人々が健康であることを願う場所には、病気を癒し、健康によい薬効のある食べ物の知識が集まっていたということ。
 そして生姜は、日本でもヨーロッパでも、珍重された薬効植物であるということです。

@紅茶


おまけ。ジンジャークッキーを食べるたびに思い出す、どこかの港町の話


 中世、イギリスのある港町に生姜を山積みした船がつきました。その船にはミカエルマスで売るための生姜が積まれていましたが、しかし荷降ろしをする前に、高い税金を支払うことを求められます。船の持ち主は、高い税金の支払いを拒否し、船に積んであった生姜をタダで人々に配ってしまったということです。
 
 私はこの話を、子供の頃、綺麗な缶入りの輸入品(舶来品といったほうがいいような)ジンジャークッキーを毎年くださる方から聞きました。私は、お歳暮にクッキーをいただいていたとずっと思っていたのですが、改めて考えてみると、もしかしたらミカエルマスにいただいていた可能性もありえます。
 そのイギリスの港町とはどこであったのか。いや、イギリスだったのか、フランスだったのか、それさえも曖昧なのですが、とにかくヨーロッパのどこかの港町のお話のようです。

 私は、ジンジャークッキーを食べるたびにこの話を思い出し、そのたびに、ドーバー海峡の灰色の波と白い岩肌の向こうにある、どこともわからない港町の映像を思い描くのでありました。

 賑やかな市、手品師やお菓子を並べた屋台に着飾った人々。そして、綺麗なジンジャークッキーの缶。
 どんよりと曇った晩秋の日の午後に熱い紅茶を入れ、綺麗なジンジャークッキーの缶を開ける時、なにやらそんな賑やかな市の様子が、ふと想像できるような気がして。

        (占術研究家 秋月さやか)




2016年9月20日火曜日

「しょうがない」の反対は「生姜あれば憂いなし」 ・・・えっ?!

生姜の古語「はじかみ」は、食べるとはじかんじゃうから。


 生姜は日本には大陸から2世紀頃に伝わったとされる薬用植物。

 古くは「くれのはじかみ」と呼ばれていたということですが、「はじかみ」とは辛い味に顔をしかめて歯をむき出すことを意味する「はじかむ」という古語が語源なのだとか。なんだかワイルドな表情のようですよ。歯が不揃いに生えている様を言った言葉という説もあるのですが、不揃いな歯を剥きだすっていったら、まるでう~っと唸って牙剥いているみたいなもんでしょうが。

 まあとにかく、生姜を齧ったら(その強烈な味に)、顔がはじかんじゃった、というような使い方をしていたんではないでしょうか。ちなみに、山椒は「房はじかみ」、やはり、食べると顔がはじかんじゃうんですね。
 
 「はにかむ」という言葉は、恥ずかしそうに顔を赤らめるみたいな意味で今は使われていますが、もともともとは「はじかむ」が語源だったのだとか。恥ずかしく、きまり悪くて、まるで辛い物を食べて顔をしかめるように歯をむき出してしまう不快な表情のこと。

 となると、「はにかんでいる君の顔がカワイイ」なんていう使い方は、古語としてはNG! もしも平安時代にタイムスリップしたなら、「はにかむ」女子は、強烈な表情で嫌がっているということですよ、それ。
 
 
 さて、生姜は漢方薬にも用いられる薬効植物、いわゆる薬味ですが、その3つの効用とは、シネオールで胃をすっきり、ジンゲロールで殺菌、ショウガオールで体を温める。
 
 生姜のあのさわやかな香りは「シネオール」で、これが健胃、食用増進をもたらすのだそう。
 
 辛味成分の「ジンゲロール」は殺菌作用。刺身にすりおろした生姜を添えるのは、魚の毒にあたらないためだっていうのですが、たしかにジンゲロールには優れた殺菌作用があります。ただしジンゲロールは、同時に発汗効果によって体温を下げる解熱効果があるため、夏の暑さを和らげるには最適ですが、冬は体を冷やすのだそう。

 そして「ショウガオール」。ジンゲロールは乾燥や加熱によって「ショウガオール」に変化します。この「ショウガオール」には体を温める働きがあるということです。そのため、寒気を伴う風邪の初期症状の治療に使われます。

 ということで、健胃、解毒、風邪など、日常の体の不調には生姜! 古くからお手軽な民間薬として重宝されているのが生姜。 そう、生姜さえあれば! 「しょうがない」の反対は「生姜あれば!」(違うって?!

@生姜

    

生姜を英語で…ジンジャー! Oh!ジンジャの門前で生姜を売るのが生姜市?


 まずは芝明神の生姜市のお話から。芝明神の大祭は現在、9月16日の前後、11日から21日までの秋祭りですが、かつて境内では生姜市が開催されていたのだとか。

 芝明神は平安時代の創建された古い神社で、今では芝大門のビルや商店街の中にあるわけですが、昔はその周囲は畑。畑で生姜された生姜を神前に供え、参拝者に授与していたということです。
 
 生姜の毒消し→諸厄を祓う。体を温めて健康にする→長寿をもたらす。「生姜は穢悪(えお)を去り神明に通ず」ということで、江戸時代には、芝明神の秋祭りには山積みの生姜を売る市が立っていたということです。
 生姜を食べれば風邪ひかない、胃を健やかにする、と人々は健康食品としての生姜を買いにやってくる。健康食品がブームなのは今も昔も変わらないし、神社の門前で売っているのであれば、なおさら霊験もあるんじゃなかろうか、と。
 
 今では、文献に記されているような盛大な生姜市はもう行われておりませんが、神社の社務所では生姜を買うことができます。今夜はこれをすりおろして、戻りカツオでも食べようかな。

 ところで甘酢生姜は大好物なので、夏の新生姜が出ると、私は必ず作ります。新生姜を薄切りし、砂糖を酢を混ぜた甘酢に漬けるだけ。簡単でしょう? 

 甘酢は、カップに砂糖1、酢を2の割合で混ぜて煮立たせても。耐熱ガラス鍋で作って冷めたところに、薄切り生姜に塩をまぶして揉んだものを入れ、そのまま冷蔵庫に入れちゃう。一度やってみてください、簡単に出来るから。ポイントはとにかく生姜を薄く切ることですかね。(厚切りの生姜がお好きな方は、さっと熱湯にくぐらせてから甘酢に漬けてください。)

 
 芝明神は徳川幕府に庇護され、かつては「関東のお伊勢さま」と呼ばれていたぐらい、人が集まる賑やかな場所であったということです。

 今でも浜松町界隈は賑やかですが、そのまま芝大門を抜けて東京タワーの増上寺に行ってしまう人が多く、その手前で芝明神商店街に入る人は、今はそれほどはいないように見受けられますが、増上寺よりも芝明神のほうが、うんと歴史が古い。

 生姜板という菓子があります。これは生姜の絞り汁に砂糖水を加えて煮詰め、固めたもの。ジンジャーシュガーと呼んだほうがいいようなシロモノですが、「伊勢名物」なのだとか。



 これは江戸時代、寛政年間頃から、伊勢神宮の土産物として売られるようになったのだそうですが、もともとは、神宮(伊勢神宮)への神饌の一つであったのだとか。子供の頃、祖母が食べていたのを貰ったことがありますけど、なかなか刺激的な味に、はじかんじゃいましたわ。菓子というより、なんか甘い薬みたいなものというような感じ。

 芝では生姜板は見当たらなかったように思いましたけど、生姜飴があったので、思わず買ってしまいました。冬、乾燥した部屋などで喉がイガイガとした時の喉飴にしようっと。
 おそらく、生姜板も、そんな感じでお茶請けにしていたんではないでしょうか。「今日は冷えるから、生姜板でもおひとつ」っていうような感じで。
       (占術研究家 秋月さやか)
   



@神灯







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 現在、秋月さやかは「占いの世界」(アシェットコレクションズジャパン)に、「縁起食材」を連載中。2017年からは「道具の縁起」連載予定

こちらのブログでは、食材をテーマに書いていますが、
秋月さやかの占術解説エッセイ(無料)は、以下のサイトでも読めます。
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2016年8月11日木曜日

狐の修行僧は上方からやってきたベジタリアンで油揚が大好物

油揚は精進料理だった

油揚は薄切り豆腐を油で揚げた加工食品で、本来の名前は「油揚豆腐」という。
 水切りした豆腐を油で揚げ、表面に揚皮を作ったもの。ちなみにこの「油揚」には、豆腐をそのまま揚げる「厚揚」と、豆腐を薄切りにした「薄揚」があるが、薄揚をさらに高温の油でもう一度揚げると、揚皮の間に空洞ができる。これが薄揚の特徴でもあり、現在一般的に「油揚」と呼ばれている食品のこと。つまり、現在、一般に売られている「油揚」は、正式には「薄揚油揚豆腐」なのかと。
 
 豆腐は殺生を禁じられた寺院の修行僧が食べていた食品で、平安時代末期から作られており、室町時代に入って広く普及。
 優れた植物性蛋白質食品ではあるが、しかし豆腐ばかりじゃ飽きちゃうよということで、いろいろなアレンジが考えだされる。
 「油揚豆腐」もその1つで、油で揚げた豆腐が、肉や魚の代わりとして精進料理にも使用された。たとえば江戸時代に編纂された豆腐百珍の中の「鮎もどき」という料理は、棒状に切った豆腐を油で揚げて蓼酢をかけたもの。つまり細長い揚げ豆腐を鮎に見立てろということで、これはかなり想像力の必要な料理だったのではないかと思われるわけですが…。
 鮎の代わりになるかどうかという点については追及しないでおくとしても、「油揚豆腐」そのものは美味しい。江戸時代に入ってそれまで高級だった油が菜種油などの普及で廉価になったことで、油揚はさらに一般に普及し、そして庶民に人気の食材となっていった。
 焼いて大根おろしとぽんず醤油を添えたり、出汁で煮つけて唐辛子を振ったり、手軽に一品作れるのもありがたい。というわけで、我が家の冷蔵には安売り日にまとめ買いした油揚が大量に入っております。別に我が家はベジタリアンではありませんけれど。 
 

獣は油揚を食べるのか?

狐は油のにおいにつられて油揚を獲りに来るのだと、明治生まれの祖母は言っていた。狐は雑食性じゃないのに、まさか油揚なんて?と私が首を傾げたら、いやいや、本当に祠の前の油揚をくわえて立ち去ったのをみたことがあるんだから、と言い張る。犬か猫を見間違えたのではないかと思うのだが、それとも人里の狐は油揚の味を覚えてしまったということなのか。狐に供えたはずの油揚を、お腹をすかせた猫がかっさらっていくなど、農村の片隅では時折見られた風景に違いない。
 それどころか、鳶が油揚を攫って行くという物騒な話も日常茶飯事で起こっていたようである。文京区の富坂はかつては「鳶坂」と呼ばれていたが、それは鳶に油揚を攫われる名所であったためなのだとか。
 
 さて、狐や狢などの小動物を、鼠を捕獲してくれる稲作の守護者として祀るという風習が日本では古くからあった。狐が住む洞穴、こんもりした雑木林のあたりなどに祠が祀られていたりするのがそれである。
 ちょっと待った~! 稲荷神は宇迦之御魂大神(うかのみたまおおかみ)、もしくは豊宇気毘売命(とようけびめ)、(その他省略)の穀物神であって、狐なんぞを祀ったものではなかろう、というお叱りを受けることもあるが、宇迦之御魂大神(うかのみたまおおかみ)、(その他省略)などの穀物神は、古事記の神道系の話でしょう?
 古い時代に、鼠をとってくれる小動物の塚を祀っていたとしても、それほど不思議はない。鼠はとって欲しい。それには鼠の天敵を祀ってしまうのがよいと考えるのは自然な流れであるはずだからだ。ただし、油揚は昔からあった食品ではないため、古い時代のお供えは油揚ではなく、では何を供えていたのかというと…一説には「鼠を供えていた」とかいう記述もあるのですが、それはちょっと勘弁していただきたいものであります。

澤蔵司稲荷と油揚 

というわけで、「稲荷蕎麦」で有名な文京区の伝通院近くの澤蔵司稲荷(たくぞうすいなり)について書きましょう。澤蔵司稲荷は、おやまあここが都内なんでしょうか、というぐらい緑の多い、まるで異界に迷い込んだみたいなところ。
 これは、江戸時代初期、伝通院で仏典を学んでいた澤蔵司という僧の正体が、なんと狐だったというお話。

 伝通院門前の蕎麦屋が、店を閉めてから売り上げを数えていると、木の葉が混じっていることに気づく。注意していると、澤蔵司が蕎麦を買いに来た日には、木の葉が混じっている。そこで澤蔵司の後をつけていくと、伝通院近くのうっそうとした雑木林の中に消えていき、林の中には蕎麦を包んだ皮が散らばっていた、ということである。人間に化けていることを感づかれた狐は、伝通院の学寮長であった覚山上人に「私は狐である」と、まさかのカミングアウトをして姿を消してしまった。
 
 この話には別説もあって、伝通院の学寮長であった覚山上人は、京都からの旅路で道連れになった沢蔵司という青年を気に入り、入寮させる。彼は成績優秀で、入寮して3年、覚山上人の夢枕にたつ。「我は千代田城内の稲荷大明神であり、かねて勉強をしたいと思っていた長年の希望をここに達した。これより元の神に戻るが、当山(伝通院)を守護して恩に報いる。」と、かなりの上から目線で告げて(神だからしかたないか)、暁の雲に隠れたという言い伝え。あるいは正体を明かしたのは元和6庚申年5月7日の夜で、当時の学寮長は極山和尚であった、という説など。
 いずれにせよ、この沢蔵司が油揚を入れた蕎麦が大好物だったということから、稲荷神社に油揚を供えるようになったのだとか。まあ、正体が狐だろうがなんだろうが、修行僧の身ではベジタリアンになるしかないわけで、実際、油揚はベジタリアンにとってかなりありがたい蛋白質補給食品であることは確かでしょう。
 
 がしかし。江戸城内に稲荷神社なんてあるのか?
 と思って調べてみたら、かつてはあったのだとか。
 室町時代中期、太田道灌の娘が天然痘(疱瘡)を患ったことから京都の一口稲荷神社(いもあらいいなり)を勧請。ただしこの一口稲荷(いもあらいいなり)の「いも」とは、サトイモのことではなく、疱瘡のことで、疱瘡の穢れを洗い流す神社であったようです。この一口稲荷は、かつて京都の巨椋池(おぐらいけ)にあったようですが、現在はありません。巨椋池は伏見城築城に伴って埋め立てられてしまったため。
 そして徳川家康の江戸入府後、慶長11年(1606年)に江戸城の改築により、城外鬼門にあたる神田川の岸辺に遷座。これは現在のお茶の水界隈で、JRの線路脇。これが駿河台の「太田姫稲荷神社」の起源。
 つまり、沢蔵司のお話は、江戸城内に祀られていた一口稲荷が江戸城外へと遷座させられた後のお話で、さらには京都から江戸へと政治の中心が移って行った時期の噂話であるということでしょう。
 澤蔵司は、かつて京都巨椋池にあった神社ゆかりの狐、夢枕に立ったのが旧暦5月7日。5月7日といえば、慶長19年の大坂の夏の陣の最終日。京都から江戸にやってきた稲荷狐が、滅亡した豊臣家の縁日に伝通院の守護を約束するという、まあ、そんなお話であるわけです。
 
 ところで、もともとは上方の寺院などで作られていたと考えられる油揚は、菜種油などの普及に伴って江戸の町で大人気になったわけですが、さらには江戸初期、庶民の間で大流行したものがもうひとつ。それは蕎麦! その2つを組み合わせた「油揚蕎麦」は、当時の人気料理最先端であったでしょう。となると油揚蕎麦に「稲荷蕎麦」とネーミングし、京都巨椋池ゆかりの狐が化けた沢蔵司のお話を広めるという、これは新たな人気料理の宣伝作戦だったのではなかろうか、とも思えるわけですが。
   (占術研究家 秋月さやか)

※写真は油揚。油揚を裏返しにし、うなぎのたれを絡めてフライパンで焼けば、あ~ら、偽鰻に化けます! ぜひやってみてください。美味しいから。鰻資源の保護も兼ねて。













2016年7月17日日曜日

忘れないで、忘れたい、やっぱり忘れられない。花占いではありませんが。

  「忘れな草」はムラサキ科の花で、 儚く青い色の寂しげな雰囲気からなのか、その名前の由来には悲恋の伝説がつきまとう。
 昔、ライン地方で、恋人のために岸辺に咲く青い花を摘もうとした若者が、足を滑らせて河に落ちてしまう。溺れながらも「ボクを忘れないで」と差しだした花…から名づけられたというもの。
 水辺は危険ですので気をつけたほうがよいです。つまり、この花の咲いているところは水辺で足場が悪いからね、という危険シグナルサインとしての命名、戒めとしてのお話なんじゃないかと思えますが。しかし男性にとっては、「できもしないことするんじゃないぞ、溺れるから」という意味を込めて、女性には愛を確かめるために無理難題を吹きかけると大変なことになるぞ、とこれもまた戒めを込めて。
 
 ところで、和製「忘れな草」として登場するのはコマクサ。夏山登山のハイライト的な花ですが、コマクサが生える場所というのは、間違いなく危険な崖です。コマクサが生えているところ、何回か行きましたけれど、高所恐怖症の私にはなかなか辛い場所でありました。ので、もう行きません。

 そのコマクサ伝説ですが、言い寄ってくる相手を諦めさせようとした娘が、「私のこと本気で好きなら、コマクサをとってきて」と若者に告げるのです。コマクサは、危険な鉱高山に生えているのでありました。これで諦めてくれるだろうと考えたわけですが、そうはならず、若者、本気にして山に登り、足を滑らせて帰らぬ人になってしまったというストーリー。しかしこれはコミユニケーションスキルが低すぎの悲劇でしょう? 言いたいことと反対のこと、言ってますよね。
 それどころか、たしかに忘れられなくなってしまうでしょう。だって、一生、その重荷を背負って生きてかなきゃならないんですよ。という意味で、やはり戒めのお話でありましょう。
 
 そして「忘れ草」というのはヤブカンゾウの花。中国の古典「延寿書」に忘憂草として登場し、万葉人は憂さを晴らすために、ヤブカンゾウの花を身につけたのだとか。ヤブカンゾウに、何やら緊張を緩和するようなアロマテラピー効果でもあるのかと思って調べてみましたが、そういうわけではなさそうです。
 ヤブカンゾウはほのかに甘く、食べることもできます。「甘味」には憂鬱を晴らす力があるというあたりから来た伝承でしょうか。だからヤブカンゾウは猪や鹿に、すぐ食べられちゃうんですよ。ホンカンゾウの蕾を干したものは金針菜で、中華料理に使います。キスゲもカンゾウの仲間で、花は甘く食べられるそうです。ですが、ヤブカンゾウはカンゾウ(マメ科)とは異なる花です。漢方薬の甘草はマメ科のカンゾウのほうです。
 
 ただし、大伴家持は、こんな歌を詠んでいます。「忘れ草 わが下紐に着けたれど 醜の醜草 言にしありけり」
(現代語訳大意→忘れ草は(嫌なことを忘れられる草っていうから)、下着につけてみたんだけれど(全然効かないじゃないか)、このオタンコナスのブス草!大嘘言いやがって。)
 下着にヤブカンゾウの花をつけて、ええいこのブス!と悪態をついていたんでしょうかね。いっそ下着になんか着けずに、食べれば良かったのでは? 
 
 「想い草」というのもあります。これはシオン(紫苑・菊科アスター属)、野菊の仲間です。
 中国の伝承ですが、昔、父を亡くした兄弟があり、兄はその墓に忘れ草(ヤブカンゾウ)を植えて辛い思い出を忘れようとしました。でも弟のほうは、墓にシオンを植え、日々、泣き暮らしていました。そしてもうすぐ1年がたつという日、ある晩、夢に鬼(鬼神)があらわれ、「今日から毎晩、夢で明日起こることを教えてやろう」と言われるのです。こうして夢見の力を得た弟は、そのおかげで、幸せに暮らしましたとさ。という話なのですが…いや、このお話はいつまでも過去ばかりみていてはいけないという戒めにも思えます。
 シオンの花を飾ったら予知夢がみられるのでしょうか? 過去を想い偲ぶ夢だけでなく、未来を信じる予知夢が? シオンには「十五夜花」の異名がありますが、それは花が旧暦八月満月の頃に咲くためです。
 
 「都忘れ」は野菊の仲間。承久の乱で佐渡に流された順徳上皇(じゅんとくじょうこう・第84代天皇)が、「この花を眺めれば都のことを忘れられる」としたところからの命名。でも、よく考えると、このお話はパラドックス。忘れたいと思うのは、忘れていないからでしょう? 忘れようとしても忘れられない切なさともどかしさが伝わってくるようなエピソードであります。

 順徳上皇は「いかにして契りおきけむ白菊を 都忘れと名づくるも憂し」という歌も詠んでいるのですが、「どのような経緯であったにせよ、今は縁のあるこの白い野菊を、都忘れと名付けてみたのだが、しかし嘆かわしい(気分が晴れない)」っていう感じでしょうか? 都忘れは紫が好まれるそうですけれど、どうやら白だったようですね?
 
 なお、「都忘れ」は、ミヤマヨメナ(シオンの仲間)のことと考えられています。ヨメナは、春になればその若葉を食し、秋になれば花を愛でるといった野草で、都ではなく、地方の風景に似あう花であったようです。都から遠く離れた地を「住めば都」にはできなかったという順徳上皇。ミヤマヨメナの花を眺めるたびに、宮中で咲き誇る大輪の菊を想い浮かべていたのでしょうか。
 別れちゃった元カノを想い出しながら、目の前の今カノとつきあっている男の悲哀のよう。こういう時こそ、下着に「忘れ草」のヤブカンゾウの花をおつけになるべきだったのではないかしら、と思うわけです。
   (占術研究家 秋月さやか)

※ ヤブカンゾウの花。甘いので、イノシシやシカが食べにきます。下着につける気にはちょっとならないけれど、入浴剤とかならいいかも。


新月の闇の中、レプトケファルスは無意識の海から孵り、幻の大陸をめざす

レプトケファルスは鰻の稚魚。透明な体をしているため、英語ではグラスイール、日本ではシラスウナギ。6月から7月にかけての新月の晩に、深海の底の真っ暗な海の中で孵る透き通った体。それがレプトケファルス。

 鰻はその生態に謎が多く、誰も鰻の卵をみたことがなかったため、アリストテレスは鰻は泥の中から自然発生するとか、テキトーなことを言っていたようですし、日本でも「山芋変じて鰻になる」とか、これまたいいかげんなことが言われていたわけで、鰻の発生がオカルトだったという話です。
 しかし、20世紀に入り、ヨーロッパ鰻の産卵場所はサルガッソ海、日本鰻の産卵場所はマリアナ海溝ということがようやく突き止められました。アリストテレス大先生もびっくりでしょう。
 
 ところで。鰻の話の前にフロイトの話をします。(ちょっと長い説明になるけど、なるべくはしょって書く。)
 私はとにかくフロイトはすごい人だと思うわけですが、天才も天才!と思ったのは、無意識という概念の提唱者であったということ以上に、「人間は本能が壊れてしまった病気の状態で、だから全員、おかしいのだ」というところからスタートしているということを知った時です。
 そう、よくぞ言ってくださいました。エデンの園を追い出されてからの人間は病んでしまったわけで、しかし、エデンの園にはもう戻れないので、カウンセリングとかで、なんとか折り合い付けなきゃならないわけですね。
  
 人の心の中には(意識されない領域としての)「無意識」があると提唱したのはフロイトで、理由がはっきりとしない心身の不調は、この無意識領域に抑圧されたコンプレックスが原因であるとしました。
 コンプレックスは本人とっては(たいていは)不快な記憶であるため、意識なんかしたくないわけですが、でも、無意識下にあるそれらのコンプレックスは、本人の心身になんとなく影響を与えていたり、ある時、意外な方向で運命を操ってしまったりするわけです。
 なぜ人は、自分が望んでもいないことをしてしまうのか。(そして人生を不本意に破壊してしまうのか)。 それは無意識下のコンプレックスが原因だとフロイト大先生は考えますが、ではどうやってそれらを解きあかすのか。それこそ、深海に沈んだ幽霊船をひきあげようというような話です。

 そこでフロイトは夢に注目します。眠っているときは自我が弱まり、外界に対する防衛本能が低下するため、抑圧された願望が開放されて夢の中に自由にあらわれることがあると考えたわけですね。
 つまりは、深海に沈んでいた幽霊船が、海面に浮かび上がってくるようなもの?!無意識とは、実現されない願望の眠る深海のような場所だということでもあります。
 しかし、フロイトがこのあたかも深海のような無意識という概念を思いついたのは、もしかしたら「鰻」が原因じゃないの?と私はなんとなく思ったわけ。

 さて、フロイトが、かつて鰻の生殖腺の研究をしていたというのは有名な話ですけど、
鰻を調べまくった研究者たちは、鰻に性別があるかどうかもはっきりしないと言って首を傾げていたわけです。そして19世紀後半、ジークムント・フロイトは雄鰻の精巣を発見! これで鰻には雌雄があることがわかったわけ。いえ、鰻にカウンセリングしたわけではなく、解剖したわけですけどね。
 が、その後、さらに衝撃の事実が! それは鰻の幼魚はすべて雄で、水質や餌など過ごした環境によって性転換して雌になるものがあらわれるのではないか、ということです。
 それがわかったのはわりと最近のことなので、フロイト先生はそれを御存じないと思う訳ですが…。
 
 ヨーロッパ鰻の産卵場所がサルガッソ海であることを証明したのはデンマークの海洋生物学者ヨハネス・シュミットですが、サルガッソ海といったら、船舶が沈没したり行方不明になる「魔の海」伝説で知られ、だいたいバミューダトライアングルと呼ばれるあたり。
 伝説では、この海域は凪になることがあり、何週間も船が動けずにいる間に船体に海藻が絡みついてしまうとか、無人となった船は、その後も幽霊船となって長い間この海域を彷徨うとか。おまけにリバイアサンが出没するとか。無意識の魔界のようなところですな。
 しかしサルガッソ海に集まるのはリバイアサンではなく鰻なのでありました。ヨーロッパ鰻のサルガッソ海での産卵は、冬から春にかけての新月の晩に行われるということですので、だいたい2月ぐらいかな。
 
 一方、日本鰻の産卵場所はマリアナ海溝付近、つまりグアムのあたりの深海。海の中でもっとも深い海。日本の河川で大きくなった鰻たちは、産卵のためにマリアナ海溝をめざし、6月から7月にかけての新月の晩に産卵し、稚魚はその後、北上して日本の河川をめざすというサイクルとなります。
 
 産卵場所が決まっている魚といえば有名なのは鮭で、鮭は河で孵って海に下って大きくなり、河に戻って卵を産む。なぜ鮭が生まれた河に戻ってこられるのかっていうと、それは鮭が生まれた河の水を覚えているからだという。
 鰻のほうはというと、海で生まれて、河をめざし、そして再び、海に帰るわけですが、しかしそれはやはり鮭と同じように、鰻が生まれた場所の水を覚えているからだろう、と言われているわけです。
 つまり、鰻の祖先はマリアナ海溝付近で生まれたに違いなく、生まれた場所の水を覚えていて、そこに戻って産卵する習性を失っていない、ということ。…しかし、なんでマリアナ海溝?
 
 その昔。太平洋に大きな大陸がありました。その大陸の大部分は、ある時、海の底に沈んでしまうが、沈まずに残ったのが、グアムやサイパン、太平洋の島々、台湾や日本だというわけです。その大陸とはムー大陸。つまり、鰻はかつて、ムー大陸の河川(汽水域)で生息していた川魚であったのではないか、という仮説があるのです。
 ムー大陸が沈んでしまい、やむなく鰻は海を泳ぐことになり、が、本来が川魚であるから、河川を遡る。そして生まれた水を覚えている習性から、産卵には、海に下ってマリアナ海溝に戻っていくのだ、と。
 鰻はとても嗅覚が敏感で、水のにおいをかぎ分け、その嗅覚は犬よりも鋭いのだとか。鰻犬って、ここから来ているんでしょうか?(違うか) ムー大陸の水のにおいに導かれた鰻たちは、6月から7月にかけての新月の晩にマリアナ海溝に集って産卵する。
 
 もしもこのムー大陸説が正しいとなれば、ではサルガッソ海は? サルガッソ海には、かつていったい、どんな大陸があったのか。そこで当然考えられるのが、プラトンがその著作の中で言及したというアトランティス大陸!
 プレートテクトニクス理論に基づいて考えると、大西洋の両岸の海岸線を近づけてもキューバのあたりで大きく隔たりがあり、それはここにかつてあった陸地が沈んだ可能性を想像させるものであり、その陸地とは、アトランティス!
 
 鰻はヨーロッパの河川から大西洋に出て、わざわざメキシコ湾流を逆流して、メキシコ沿岸のサルガッソー海で産卵し、サルガッソ海で孵化したレプトケファルスは、メキシコ湾流に乗ってヨーロッパまで移動するということですが、その不自然な動きから、かつて大西洋上には陸地があり、何らかの原因で、この陸地が消失したためメキシコ湾流がヨーロッパ沿岸に到達するようになり、鰻はその流れに従って、奇妙に思える生態行動をとっているという説が唱えられているわけです。何らかの原因とは、その陸地が沈んじゃった、ということですね。
 
 となると、鰻の記憶の中に、ムー大陸はあるのか?アトランティス大陸は?はたして深海の眠りの中で、レプトケファルスは古大陸の夢をみるのか? 
 新月の夜、鰻たちは深海の底で孵り、そして記憶を呼び覚ましてかの地をめざす。古の失われた故郷を。
   (占術研究家 秋月さやか)

※ この画像は、登録済の素材辞典より。



イクチオヘモトキシンは背徳の味?! 


 鰻(ウナギ)、お好きですか? 鰻と聞いただけで、あの甘い香りのたれの匂いが…記憶の中に煙たさと共に蘇り、バーチャルに鼻をくすぐるぐらい、私も!鰻が好きですよ~。でも、鰻よりも穴子のほうが好きかな~。う~ん、どっちもいいな~。 

 ところで。鰻は生食が不可能な魚。サシミ好きな日本人といっても、鰻を生では食べない。それは何故か。鰻の血液中にはイクチオヘモトキシンという血清毒が含まれているから。
 これは哺乳類にとって有毒な成分で、もしも生鰻にかぶりつけばどういうことになるかというと、下痢、吐き気などの中毒症状を訴え、大量に食べると死に至ることもあるのだというぐらい怖い成分。ちなみに穴子にもイクチオヘモトキシンが含まれているそう。
 しかしイクチオヘモトキシンは60℃で5分以上加熱すれば変性して毒性を失うため、従って、加熱処理した鰻は問題なし! 蒸したり焼いたりした鰻は、まったく安全な食材なのでありました。
 といっても、毒は薬に。薬は毒に。無毒化したといっても、もしかしたらイクチオヘモトキシンには何らかの薬効があるのではなかろうかという気もしないではありませんけどね。だから人々は、鰻を食べたがるのではないだろうか、と。
 
 日本だけではなく、鰻はかつて中世ヨーロッパでは人気の高級食材であったということです。ヒポクラテスは「うなぎの食べ過ぎなどによる肥満は人間の体の最大の敵」と著述しているそうですが、しかし、それは消費カロリーが低い(働かない人たち)の場合でしょう。

 ローマ教皇のマルティヌス4世は、白ワインと蜂蜜の鰻の焙り焼きが大好きで、なんとその鰻の食べすぎで命を落としたという伝説が。。。
 ダンテの『神曲』では、マルティヌス4世は煉獄で大食の罪を償っているという設定になっており、高級グルメ&大食のダブル重罪。
 しかし、「鰻を食べ過ぎて死んじゃった」の詳細については、①含め以下のように多々の可能性が考えられると思うわけで、たぶん正解は④あたりだったような気もするわけですが。

①大食で消化器トラブルから死に至る。それが鰻じゃなくても過度の大食は危険。
②うっかりと生焼けの鰻を食べてしまったためにイクチオヘモトキシン中毒に。
③鰻に限らず高カロリー食材の食べ過ぎでメタボ&高血圧&血液ドロドロに。
④好物の鰻に毒を仕込まれ(好物だから警戒が緩んで)、あっけなく毒殺。
⑤死の間際に鰻食べたいと懇願、それが鰻を食べながら死んだという伝説に。

 さて、マルティヌス4世の戒めがあるとしても、それでも鰻の人気は衰えず。そして 鰻といえば、ロンドン名物鰻料理! ロンドン動物園が閉園になるかも知れないという頃(今から20年ぐらい前)、友人に一緒に行こうと誘われ、ガイドブックでロンドンの食べ物事情を調べましたよ。鰻のゼリー寄せ、そして鰻パイ、食べてみたいっ! (浜名湖のじゃなくて。)
 しかし結局、ロンドンのガイドブックを3日程読んだだけで、鰻パイの空想は終わりました。仕事が忙しく、どうにも無理だ、っていう状況になってしまったから。ああ、幻の鰻パイ。といっても、ロンドンの鰻パイはテムズ河の鰻ではなく、オランダ辺りからの輸入鰻を使っているそうですが。(そしてロンドン動物園は、結局、閉園しませんでした。)
 
 ヨーロッパではヤツメウナギも食べます。ヤツメウナギといっても、これは鰻ではなくまったく別の生き物、ヤツメウナギ科で、なんともグロテスクな生き物でありますが。ヨーロッパではローマ帝国の頃から食され、皮も肉も鰻よりも固い食感であるため、貧しい人々の食料となっていたのだとか。
 ヤツメウナギはビタミンA(レチノイド)を大量に含むので目によいとされ、画面で疲れた目には必須。都内にも何軒かヤツメウナギを食べさせる店があるそうで、タクシードライバーの方々がよく行くそうです。
 フランス、ポルトガル、スペインなどではパイやシチューの材料として用いられ、ヤツメウナギの赤ワイン煮込み「ヤツメウナギのボルドー風 (Lamproie aux poireaux)」は有名で、旬である冬から春の季節限定料理なのだとか。なるほど、夏ではなく、冬から春にかけてね。鰻の旬も、実は夏ではなくて秋から冬の脂がのった時期なんだそうですよ。
 ロシアではヤツメウナギのマリネはザクースカ(冷たい前菜)に用いられるのだとか。マリネね、マリネ。
 そしてなんと。イングランド王ヘンリー1世の死因は、ヤツメウナギ料理の食べ過ぎなんだとか! 食べ過ぎるほど美味いのか? 
 
 というわけで。今年の夏は、以下の2つのメニューにチャレンジしてみようかと思っております。
1・「背徳の鰻、蜂蜜焼きマルティヌス風」
 鰻の白焼きに蜂蜜をからめてオーブンで焼けば作れそうな気がするんですが、胡椒もしくはマスタード風味っぽく。どちらにしろ、鰻にはこってりと甘辛い味が似合う。

2・「穴子のゼリー寄せヘンリー1世風」
 ヤツメウナギではなく穴子でチャレンジ。穴子は煮てゼラチンを加えてゼリー寄せに。そしてキュウリの薄切りを添えたサラダ仕立てはいかがでしょう?穴子とキュウリはあいますよ!
 
 とまあ、鰻を食べるお話を書いているわけなのですが、ユダヤ教の戒律にあるカシュルート(ユダヤ教の食事規定)によれば「水に住むうろこの無い物を食べてはならない」とされているため、ユダヤ教徒はタコ、イカ、エビ、貝、イルカ、クジラなどは食べちゃだめ。もちろん鰻も。イスラームでもそうみたいです。
 ただし、近年、鰻のあのぬるぬるした皮膚の下には細かい鱗があるということが発見され、鱗の無い魚から鱗のある魚に昇格したようです。しかしおそらく、戒律に厳しいユダヤ教徒は食べないと思われます。そもそも、鰻の血液は緑色だったでしょう?

 鰻の大量消費国といえばそりゃあ日本ですが、しかし、鰻を食べてはいけないという地域があるのは御存知でしょうか?
 たとえば三島。湧水の里で知られ、湿地も多く、古くから鰻が自生していた地域ですが、鰻は水神様の化身となるため、三嶋大社の神池の鰻の捕獲は固く禁じられていたということです。1697年(元禄10年)の「本朝食鑑」に記載されている「耳鰻」は、鰻にちょこっと耳というか角が生えたよう形で、これが明神の「使い魔」。。。じゃなかった「お使い」でございます。しかしこのような鰻は実際にはいないそうで、鰻ではなく、サンショウウオの姿を見間違えたのではないか、という説が有力ですが。
 
 とにかく三島では鰻を食べなかったのだそうですが、明治維新の時に薩長の兵が三島に宿泊、勝手に鰻を捕まえて食べてしまったのだとか。なのに神罰が当たらなかったため、それ以降、三島の人々も鰻を食べるようになったということです。
 たぶん昔、生鰻を食べた人が死んでしまったために「食べてはならない」という戒めが生まれ、それがずっと語り伝えられていただけなのかも知れません。とはいうものの。私はきっと三島で鰻は食べないだろうと思います。なにせ信心深いので…というのは嘘で、せっかくの昔からの言い伝えなんだからそのぐらい守ってもいいんじゃなかろうかというのと、薩長連合軍が禁忌を破ったというのがなんだなあ、というあたりで(三島では)食べないと決意!
 といっても結局のところ、罰当たりな食材ほど美味しいのかも知れませんけどね。   (占術研究家 秋月さやか)

※ 我が家が常食にしております鰻はこれ!(って、鰻ではないのですが)