2013年12月16日月曜日

安眠を妨げないお茶は…カフェインレス。というわけで、ノンカフェインの専門店ビオイッシモで扱っておられるお茶!

 私、ノンカフェインのお茶も、ずいぶんと試してみました。安眠用に、です。が、味が薄かったり、苦かったり青臭かったり。まあ、漢方薬に比べればかなり美味しいのですが。
 紅茶とのブレンドティーにすれば、お味はよくなりますが、それじゃノンカフェインにならないでしょ、ということで。本当にいろいろと試したのです。
 チコリコーヒーは、まあまあOKでしたが、どこのメーカーが作っているのかによります。お茶は嗜好品です。そうです、美味しいものを飲みたいんです。安眠に効くからと飲んではみたものの、やっぱり、紅茶で口直し、なんていうこともありましたので。
 
 と、いろいろと探していましたら、なんと、ノンカフェインの大麦コーヒーがあるというではないですか。しかも、試供品をいただけるというではありませんか! 
 ということで。さっそくいただきまして、試してみました。商品名、販売店情報は以下です。

 「商品名 オルゾ・モンド・ビオ(大麦焙煎飲料)」
 原材料:大麦(古来裸麦・モンド種)原産国:イタリア
 
マスターオーガニックコーディネーターの
イタリアオーガニック専門店「ビオイッシモ」

www.bioissimo.jp
〒106-0047 
東京都港区南麻布4-12-25
南麻布セントレ2F
TEL: 03-5752-5133 
FAX: 03-6701-7311 
お問い合わせ: info@bioissimo.jp


 お味ですが、大変美味しいです。私、美味しいお茶はこれまでにもたくさん飲んできました。お茶にはうるさいほうですが、これは美味しいです。
 が、コーヒー味を期待した方は、ちょっとがっかりなさるかも知れません。代用コーヒーとしては、たんぽぽコーヒー、チコリコーヒーのほうが、苦味が強く、コーヒーに近いようです。冷やしてみましたら、苦味が強くなって、コーヒー度が増しました。コーヒーの代用としてお飲みになりたい方は、冷やしたほうがいいかと私は思いました。

 これは大麦焙煎ハーブティーです。しかし、大麦焙煎ティーとして、かなり美味しく、ほのかな甘みもあります。大麦焙煎というと、麦芽飲料を思い浮かべる方がいらっしゃるかも知れませんが、ああいった粉っぽい味ではなく、むしろ私は、紅茶のお味に近いといったほうがいいように思えました。ストレートで、じゅうぶんに美味しいです。
 
 もちろん、不眠に悩んでおられる方が、眠る前に何か飲みたいという時にもちょうどいいでしょう。ハーブティーは、ブレンドティーにすると美味しくなりますが、紅茶とのブレンドではノンカフェインにはなりません。そういった時に、ブレンドベースに使うのにもいいのではないでしょうか。個人的に、オレンジブロッサムとのブレンドがよさそうだと思えました。
 
 不眠症に悩む方々、これは、お試しいただく価値があると思いますので、ぜひ!


 ティーパック、10個入っています。まだ残っていまして、せっかくですから、次回の「睡眠と夢とα波測定セミナー」にいらしたみなさまに、ぜひ試飲していただこうと思います。次回の測定セミナー、どうぞお楽しみに!



2013年12月15日日曜日

深夜のカフェインは安眠にはNG! 不眠症に効くお茶ってありませんか?と聞かれることもあるのですが。

 ご近所のOさんが、よくお茶に誘ってくださるのだが、午後3時を過ぎると、彼女はお茶を飲まない。夕方になってからお茶を飲むと、夜、眠れなくなるというのである。もともと、お茶は修行僧たちが眠気を覚まして頭を冴えさせるために飲んだもの。そして、眠気を覚ます成分はお茶の中に含まれるカフェイン。
 ティータイムなのに、私だけがおかわりしながらお茶をいただくのは落ち着かないので、「ほうじ茶にしませんか?」と申し出ることにしている。(注・ほうじ茶は、緑茶に比べるとカフェインの含有量が少ないので。)
 
 Oさんほどではないが、深夜、コーヒーを飲むと眠れなくなるので気をつけている、という人たちも多い。だから夜はコーヒーじゃなく、ペットボトルの烏龍茶にしているという知人がいたのだが…。いや、烏龍茶もカフェインは入っていますので、それはあまり効果ないでしょうけどね。眠れない、眠れないと言いながら、コーラがぶ飲みもよくありません。眠れないのは当たり前ですよ、カフェイン摂っているんですから。
 
 不眠症の人は、まず眠る3時間前ぐらいからは、カフェイン摂取をやめましょう。カフェインは、頭を冴えさせるのです。午後3時からやめるほどではないにしても、深夜は控えて。食後のコーヒーはいいとしても、1杯だけ。徹夜仕事や締め切りが入っていない限り、その後はノンカフェイン飲料にしてください。
 
 ノンカフェイン、つまり、お茶、コーヒー、ココア、マテ茶、コーラ以外。となると、ハーブティー、ほうじ茶、麦茶など。ジュース、ミルク、酒、水も、カフェインは入っていません。深夜遅くまで起きている私は、何も飲まずというわけにはいかず、ミントティーとか、レモン水(レモンの皮を煮出したもの)とか、蜂蜜水を飲んでいます。ビールでもいいんだけど、私の場合、眠くなってしまうと物が書けませんから。コーヒーを飲めば、そりゃあ物は書けますよ、ちゃっちゃと。でも、その後、寝つきが悪くなるので…。
 
 そしてノンカフェインというだけでなく、安眠にいいお茶として、古くからの代表的なものを幾つか書いておきましょう。セージとラベンダーはお茶にして飲むというより、飲まないでそのまま香りを楽しむだけでも安眠効果はあるようです。アロマポットは面倒ですが、ティーカップなら簡単です。

→カモミール   小さな菊のような花をつけるハーブ。青林檎のような香りですが、残念ながら、ドライではこの香りが消えているものが多く、個人的にはフレッシュ(生)がおすすめです。リラックス効果があり、安眠のお茶。ピーターラビットに登場するので有名です。

→オトギリソウ  といっても、西洋オトギリソウ、セイントジョーンズワート。含まれているヒペリンシンが不眠症に効果があるとされます。夏至の頃に黄色い花を咲かせるオトギリソウですが、北極圏に近い地方では白夜。白夜に花を咲かせるオトギリソウに安眠の力があるなんて、ちょっと神秘的。

→バレリアン   不眠症に悩む人ならバレリアンという名前は当然ご存知でしょうか。カノコソウ。鎮静作用があり、民間薬としても売られています。独特の香りは化粧品の香料にも使われ、昔から異性を誘惑する力があると考えられていたそうで…。

→パッションフラワー   これ、かえって目が冴えちゃんじゃないか、となどと、名前からすると思ってしまうのですが。さにあらず。この花のお茶にはリラックス効果があるそうです。実のほうはというと、強壮剤に使われることもあるとかで、こちらは安眠とは無縁のようですが。

→リンデンフラワー  リンデン(西洋菩提樹)の甘く白い花を乾燥させたものです。その香りには、心配事を取り去り、心を穏やかにし、安眠をもたらす力があるといいます。でも、リンデンは、東洋の菩提樹とはまったく別の種類です。東洋の菩提樹が、無憂樹と呼ばれるので、混同しやすいのですが。

→セージ      イギリスでは古くからセージ茶が飲まれていたといいます。セージは、ソーセージに入っているアレ。セージの香りは、イライラを抑えてくれるのです。殺菌の力もあります。最近では、浄化に使われるので有名ですが。まあ、邪魔なものをすっきりさせれば安眠できますけどね。

→ラベンダー    ラベンダーの香りは、古代から、洗濯物の仕上げに使われました。殺菌、防臭効果があり、悪い虫を寄せ付けない。ある種の魔除け効果もあります。いらいらを鎮め、心を静かに落ち着かせてくれる香り。が、ブレンドティーにしたものはノンカフェインになりませんので注意。

→オレンジブロッサム   オレンジブロッサムだけでなく、オレンジの皮、レモンの皮も可。柑橘類の香りには、憂鬱を吹き払ってくれる力があります。くよくよと考え込んで欝になってしまって眠れない時にはぜひ! 気分が晴れれば安眠可。(個人的に)これはかなりおすすめです。

→蜂蜜    蜂蜜はお茶じゃないだろうって? でも、古代では蜂蜜を湯に溶かしたものが飲まれていました。蜂蜜は心を穏やかにします。たいていのハーブティーは、味が薄かったり、苦かったり青臭い味がしますので、蜂蜜を足して飲むことをおすすめします。

→たんぽぽの根    たんぽぽコーヒーです。夜、コーヒーを飲みたいという人のための代用品です。たんぽぽの根そのものに安眠効果があるというわけではありません。利尿効果があるので、トイレが近い人は、逆に安眠できないかも知れませんけど。



植物の葉とか根とか実とかの…薬湯。魔女の部屋にはこんな材料がたくさん並んでいそうで。

 カフェインを含まないお茶もあります。わかりやすくいうと、カフェインを含んでいる茶、コーヒー、マテ、そしてカカオ以外のものから作られたお茶がノンカフェイン茶です。
 植物の葉や根、花、茎などから作ったお茶。植物性の薬を煮出した薬湯といったほうがわかりやすいでしょう。その薬効や栄養成分に期待するものです。
 植物には、それぞれ効用があります。ですから、これらの効用(薬効)も知っておいたほうがいいでしょう。利尿作用があるとか、体を暖めるとか。体調によっては、飲んではいけないものもあります。薬湯なのですから。

 植物は、その成分を食べたり飲んで体の中に取り入れるだけでなく、燃やして煙として有効成分を空中に発散させたり、湯を注いだり暖めて、揮発成分を吸ったり、体に塗ったり触れさせて薬剤として使用することもあります。
 
 生の素材のまま、乾燥させる、あるいは炒るなどの加工方法もあります。乾燥させることで、保存しやすくなるだけでなく、日光にあてるなどで成分変化が起こる場合もあるのです。材料を炒ると、消毒になるだけでなく、こうばしい香りを引き出すことができます。大麦、とうもろこし、黒豆などです。その他、たんぽぽの根、チコリの根などを焙煎したものがあります。これを、たんぽぽコーヒー、チコリコーヒー、つまりコーヒーの代用として用いる人たちもいます。

→海草。    昆布を乾燥させて粉末にしたものが昆布茶。湯に溶かして。ミネラル成分豊富。お茶というよりスープですが、お茶に分類しますね、普通。

→キノコ。   たとえばレイシ、シイタケ。乾燥させて煎じる。まさに漢方薬。キノコは干すとうまみ成分が増すので、出汁にも使う食材ですが。

→木の枝、葉。 イチョウ、柿、リンデン、メグスリノキ。葉、枝、木皮を乾燥させたものを煎じて。薬になったり、スパイスにしたり。

→草、茎。   ミント、レモンバーム、セージ、スギナなど。生葉にお湯を注ぐ、あるいは乾燥させた葉や茎を煮出して。

→花、つぼみ。 マリーゴールド、紅花。ラベンダー、マーロウ、ローズ、ジャスミン。花びらなので色が美しく、目でも楽しめるお茶に。

→実、種、豆。  ローズヒップ、アニスシード、ベリー、黒豆、麦、米、とうもろこし、カルダモン。果実の皮のみを用いることもある。

→根。     たんぽぽ、チコリ、リコリス、人参などの根。根を乾燥させて粉にしたり、焙煎することもある。


2013年12月13日金曜日

お茶とカフェイン。カフェインとセロトニンと、テアニンとα波?!

 喉の渇きを潤すだけなら水か湯で事足りるだろうに、しかし人はお茶を飲みたがる。お茶は、体への水分補給というより、心の潤いのためにあるのだろう。その薬効は、体だけではなく、心にも効くということ。

 ではお茶の効用は? 眠気覚まし。酔わせずにはっきりさせる。そう、ここが酒とはまったく異なるところなのですが、それはカフェインの効用です。そしてカフェインを含んでいる飲料の代表、茶(カメリア・シネンシス)、コーヒー、マテ。この3つ。

→ 茶(学名カメリア・シネンシス)、中国の奥地に生えていた茶の木です。カメリアというだけあって、椿の仲間。茶の花は、小さな白い椿みたい。
 その主成分はタンニン(ポリフェノール、カテキン)、カフェイン、テアニン(アミノ酸)。カフェインは、気分をさわやかにはっきりとさせます。カフェインは、日本茶だろうが、烏龍茶だろうが紅茶だろうが、茶という植物(学名カメリア・シネンシス)に含まれる成分なので、茶葉から作られた飲料にはすべてカフェインが含まれます。
 
→ コーヒー。エチオピアやアラビアには野生のコーヒーの木があったといいます、13世紀頃、シリアでコーヒー豆を炒るようになってから、飲料として広まったのだとか。正確には焙煎したコーヒー豆の抽出液。
 コーヒー豆にももちろんカフェインが含まれています。眠気を払い、しゃっきりとさせる飲み物。コーヒーのあの香りは、焙煎によって引き出されます。香りのないコーヒーは、まったくおいしくありません。コーヒーの魅力は、カフェイン+アロマ!
 
→ マテ。モチノキ科の木。その木の葉とか枝から作るのがマテ茶。南米では常飲されているようです。マテにももちろんカフェインが含まれています。あとは植物アルカロイドのマテインを含有。マテ茶は、緑茶のように蒸して作るものと、ロースト焙煎で作るものの2種類があるのだそうです。ローストして作られたマテ茶は、ほうじ茶のような味だという人もいます。苦いのですが、肉を食べた後などに飲むと口の中がさっぱりします。
 
 カフェインを摂ると、脳内トリプトファンが増加、そしてセロトニンが増加するという構造です。セロトニンは、記憶、睡眠、情緒に関連します。なるほど、であればお茶(カフェイン)は、かなりスピリチュアルな飲み物といえるのではないでしょうか。
 そしてテアニン(アミノ酸)を摂取すると、リラックスしてα波が出やすくなるという報告があるそうですが。遮光して栽培したお茶は、テアニンの含有量が多くなるのだとか。遮光して栽培…なるほど、抹茶は、α波がたくさん出るお茶ということなんですね。   (秋月さやか)


お茶は、お茶の葉から作る…いや、お茶の葉が入っていないものもお茶って言うんですけど。

 お茶って、いつ頃からあるんだろうと思いましたら、5000年ぐらい前からだとか。神農(中国の伝説の人物)が、「水は生のままではなく、煮沸して湯にし、安全にしてから飲むように」と人々に教えます。(ナントカの霊水みたいな泉の水は別として)、生水は危険です。人類は、水を沸かして飲むことができるようになったので、健康を保つことができたと考えてよいでしょう。
 とまあ、そんなある日のこと。神農が湯を沸かしていると、薪についていた葉が数枚、湯に入ってしまったのです。が、この湯を飲んだところ大変美味。その木の名前が茶だったので、茶葉の入った湯を茶と呼ぶようになったのだとか。(というより、その木の名前をそこで茶を名付けたのでしょう、きっと。)

 お茶の故郷は中国の奥地です。中国原産ですが、しかし、中国にしかなかったというわけではなく、日本にもかなり昔に茶の仲間が自生していたといいます。が、お茶の葉をお茶にする技術を確立したのは古代中国です。
 茶の葉を干したり炒って乾燥させることで、茶葉の保存や持ち運びもできるようになっていきます。古くは茶葉を蒸して乾燥させたものを、煮出して飲んだり、石臼で粉にして湯に溶かして飲んだのです。
 三国志の中で、劉備玄徳が、母のために大枚をはたいて高価なお茶を買うという場面があるのですが、お茶は、長生きの薬であり、高価で貴重な物の代表として登場します。お茶の葉の薬効は、頭を冴えさせ、若返りの力がある、万能漢方薬みたいなものだったのです。
 
 
 といっても、お茶にするのは茶葉だけではありませんでした。たとえば菊花。ややこしいのですが、お茶というのは、抽出液、湯汁のこと。薬効のある、あるいはよい香りなどの植物を煮たもの…薬湯です。
 正確には、お茶葉で抽出したなら茶葉湯で、それが本当のお茶。菊花の抽出液は、お茶の葉は入ってないんだから、菊花湯と書いたほうがわかりやすいような気がします。でも、お茶じゃないものが入ってる湯汁も、お茶と呼んでしまうので、やっぱり菊花茶なんですね。
 
 ということで。改めてお茶について書きましょう。お茶といえば、コーヒー、紅茶、緑茶、烏龍茶、昆布茶、麦茶、マテ茶、ハーブ茶…。コーヒーはお茶じゃないでしょ、と言われるかも知れませんが、ここでいうお茶は、いわゆる喫茶としての飲み物を意味するものです。
 そういう意味では、ジュースもアルコールも、ミネラルウォーターも喫茶飲料に含まれますが、さすがにお茶とは呼びません。さて、嗜好飲料の中で、最も消費量が多いのは紅茶なのだそう。コーヒーの需要は紅茶よりも少ないなんて、意外でしょ? 世界で一番飲まれている飲料はお茶なんです。   (秋月さやか)



お茶の話。私の体内水分量のうち半分はお茶かもよ。つまり体の3分の1がお茶!  

 朝起きるとまずコーヒー。それでようやく目が覚める感じ。それから紅茶。あいまに緑茶。またコーヒー。…お茶を飲まないと、気分がすっきりしません。頭ボケまくりです。というわけで、お茶にはうるさいです、私。そして、ちょっと詳しいです。
 
 年上の友人だったR子さんにはスリランカの知人がいた。かつて、R子さんの経営していたレストランの元バイト君。なんと、彼の実家はホテルを経営しているのだそうである。
 「彼にスリランカの農園を紹介してもらってね…お茶を輸入してビジネスできないかしら?」とR子さんから相談されたことがある。輸入ビジネスについては、R子さんにはすでにイタリアの会社との実績があり、イタリアがスリランカになるだけよ、とR子さんは言う。

 うん、いけそうだ、と私も思った。で、半年間ぐらい本気でスリランカの茶農園について調べたことがあるのですよ。ティーインストラクターの資格をとる気になったR子さんと、ちょっと一緒に勉強を始めてもいたわけです。
 「教えてくれれば覚えるわ。記憶力はいいのよ、私!」と豪語したR子さんのために、私は図書館に通い、お茶関連の本を30冊ぐらい読みまくった。もともと私の専攻は食物栄養学なので、できない話ではない。そして、なにもお茶を栽培しようというわけではない。買い付けられればいいのである。
 
 午後3時、近所のデニーズにてティータイム。「あら、コーヒーでもいいのよ、私。ハワイのコーヒー、おいしいっていうじゃない?」と、すぐに話が脱線するR子さん。「ハワイに知り合いいるんですか?」「いないけどね…」「…。」「ねえ、ハワイってさあ…」「いないんですよね、知り合い。じゃあ、知り合いがいるスリランカを優先してください!」「わかったわよ…。で、なんだっけ?」「茶葉の大きさ。」「それが何か?」「試験に出るから。」「…?」「暗記!覚えるの。覚えてください。自力で。」
 
 とまあこんな感じで、そういう時のコーヒーはさすがにR子さんのおごりでした。白玉小豆もつける?ってR子さんは気を使ってくれましたが、私は本当にコーヒーだけでよかったの。
 R子さんと一緒にお茶を輸入するビジネスをやれば、安くお茶が飲めるだろう、それが私の目的でした。いいお茶を買い付けて、思う存分飲めたら!ああ、それこそ極楽だわ、天国だわ! 
 「まずスリランカに行こうよ。」と、R子さんは言う。元バイト君ちのホテルに泊めてもらうというのである。タダで。「タダっていうのは無理でしょ。」「そうかしら?大丈夫よ。」「…まず、基本ぐらいは勉強してからね。」
 …でも、R子さんは、突然、お星様になってしまったので、これは実現しなかったんですけどね。   (秋月さやか)

※ R子さんの店ではなく、その近所のイタリアンレストランの庭。庭を眺めがならお茶を飲む。至福の時間。この像の持ち主には撮影許可を取っていますよ、私


2013年11月10日日曜日

富士川の合戦一の美男、光源氏の再来とまで騒がれたその人の名は…?

 クイズ番組ではないので、答えを先に書きましょう。平維盛です。清盛の孫。重盛の息子。光源氏の再来と称され、桜梅少将と呼ばれました。平氏嫌いの公家でさえ、維盛を美しいと絶賛したぐらい。

 富士川の戦いでは23歳。出陣の姿は、赤地錦の直垂(ひたたれ)、萌黄の大鎧。馬は連銭葦毛といいますが、グレーのまだら馬です。そして金覆輪の鞍、これは前後が金で縁取りしてあるという豪華な鞍です。
 副将軍の忠度はというと、紺の直垂、黒糸おどしの鎧。そして馬は黒毛。沃懸地の鞍といって、漆塗りに金銀粉をちりばめた…まあ、ラメ鞍ですね。
 とことんビジュアル系の2人。並んだ姿はそれはそれは美しく、絵にもかけない美しさ。…だからでしょうか、絵は残っていません(たしか)。
 
 富士川の戦いには、義経はまだ馳せ参じてはいません。しかしながら、仮に義経がいたとしても、やはり合戦一の美男は維盛なのです。
 え?義経、美男でしょう?と思った歴女のあなた! そのお気持ちはよくわかります。それはそれで、歴史小説のロマン。
 しかし、源義経については、小柄で出っ歯の男であったという記述が残っているだけで、美男とはどこにも書いてないということです。
(新・平家物語では、出っ歯で小柄な義経は、十郎行家の息子で、敵を欺くための偽義経ということになっていますが。)
 
 戦はビジュアルでするものではありません。ゲームじゃないんだから。
 さらには、平氏は陣中でみやびな管弦を奏で、杯片手に物見遊山だったという、とんでもない記録が残っており、当然ですが、負けちゃったのです。

※ 写真はトリカブト。花の形が烏帽子(えぼし)に似ていることから。烏帽子をつけるのは元服のしるしでした。元服してから初陣です。

 トリカブトは秋の野山に咲く花で猛毒。鏃に塗る毒に用いられることもあったとか。
 ブスというのはトリカブトの毒のことをいいますが…そうです、醜女を意味する言葉でもあります。トリカブトの花は見た目は雅で、醜女どころか、白拍子クラスでしょう。
 が、含毒。毒と書いて(ぶす)と読ませる読み方もあります。ブスってのは必ずしも見た目じゃないよという、なにやら教訓めいたお話に聞こえてきませんか?



暦占VS兵力、富士川(フォッサマグナ)を挟んで合戦するも・・・

 1180年の話です。頼朝旗揚げの知らせが京の都に届き、清盛は討伐の命令を出します。旧暦九月五日のことですから、頼朝が安房の国にいた頃。が…。討伐軍はなかなか出ない。出陣の日取りを巡ってすったもんだしていたため。お日柄がいいとか悪いとか。そして、旧暦九月二十九日(10月19日)にようやく京を立つのです。その間に頼朝は安房の国を出て、浅草で諸将と合流。つまり、頼朝に再起の時間を与えてしまったというわけです。
 
 総大将は清盛の孫、維盛ですが、実質、軍を取り仕切っていたのは、維盛の乳父(めのと)、つまり養育係の藤原忠清。忠清が「お日柄が悪いですぞ、若」とかなんとか言っていたんでしょう、きっと。
 まあ、暦占で日取りを占って戦っていた武将はたくさんいます。なんと、頼朝の先祖である源頼義が安倍宗任を攻めた時にも、忌日には攻めたくないといって延期したという話が伝わっています。暦占で忌日とされると出陣はナシ。

 忌日はつまり、具注暦の中の凶会日(くえにち)ですが、干支の陰陽が不調和の日です。枕草子にも登場する話題です。たとえば正月は、辛卯、庚戌、甲寅の日が凶会日となります。

 さらに、十死日、絶命日も忌日で、今の暦占とほぼ同じですが、十死日は正月、四月、七月、十月の酉の日、二月、五月、八月、十一月の巳日、三月、六月、九月、十二月の丑日。
 絶命日は春の巳と酉の日、夏の亥と未の日、秋の亥と寅の日、冬の巳と丑の日。そして春は庚辛日、夏は壬癸日、秋は丙丁日、冬は戊己日、土用は甲乙日、というのもNG!そしてきっと…黒日もあったのでしょうね。黒日は、正月戌、二月辰、三月亥、四月巳、五月子、六月午、七月丑、八月未、九月寅、十月申、十一月卯、十二月酉。以上は節切り月、つまり十二支月です。
 さらには、三、五、九、十一、十五、十七、二十一、二十三、二十七、二十九日は除外されるので可とあり、ただし小の月の晦日はダメ。…ということは、この日付は、朔望月でチェックするわけですね。ええい、ややこしいっ!
 その他に、その日の凶方位に向かうのであれば方違えも必要だったのでしょう。…そんなことしていたら、負けちゃうでしょ。どう考えたって~。
 
 合戦前夜。つまり旧十月二十三日の夜(1180年11/12)。突然、水鳥の羽音が響き渡る。平氏は、その羽音を敵の夜襲と勘違い、(合戦の約束は明日だろ~、ええいっ卑怯だぞっ、とうろたえながらも)全員逃亡。翌二十四日の朝方、源氏方は、富士川で勝鬨の声を三度あげたといいます。戦わずして勝ったわけですが。

※ 歴女なんですね、秋月さん、と言われました。いいえ、暦女と呼んでください。




2013年10月30日水曜日

金砂郷の山中、ヒデヨシは猿に酒を振舞われ、感涙に咽ぶ

 秋の野山にいろいろな木の実。たわわに実る、つややかな色。
 猿は、その木の実を集めて木の洞に溜め込む。食べるために貯蔵しておくのだが、そのままほったらかしにしているうちに、木の実が醗酵して酒になるという。これが猿酒。山中で偶然発見されることがあると言い伝えられている、幻の酒である。が、猿は頭がいい。猿酒が美味いとなれば、木の実をせっせと木の洞に溜め込んで、酒にするかも知れない。

 さて、時は1180年、旧暦十一月半ば。たぶん太陽暦では12月に入っていたのだろう。場所は金砂郷の山中。(現・茨城県北部)。
 すでに紅葉は散り、寂しい岩肌が目立つ冬の景色。袋田の滝はまだ凍ってはいないが、下流の岸辺にはすでに薄氷が張り始めていたに違いない。
 
「頼朝、許すまじっ!…ううっ、うっ、うっ…;;」
「ウキキッ、ヒデヨシ様、泣いちゃいけません、男の子でしょ!キキッ」
「う・・・すまん、つい…ぐすっ…」
「キキッ、一杯呑んで、景気つけてくださいっ!ほら、ぐっと!ウキーッ!」
「かたじけない、猿殿!」
「ムキキ、マツタケが焼けましたよ!キキッ、いい匂い!」
「う、うっ、美味い、美味いぞ、ぐすっ…。;;うぇ~ん…う、美味いっ!」
 
 焚き火の側で泣いているのはヒデヨシである。ただしヒデヨシといっても、秀吉ではない。もちろん、アタゴオルのヒデヨシでもない。佐竹秀義、佐竹のヒデヨシ様のことである。そして、ヒデヨシに酒を勧めているのは猿!

 佐竹ヒデヨシは、金砂城の戦いで、源頼朝に敗北。わずか数名の供のみで、金砂郷の山中を敗走中。冬の山中、食べ物などなく、いずれ餓死か凍死だろうと思われていたらしいのだが…。が、なんと、佐竹ヒデヨシは逃げ延びる。伝承によれば、ヒデヨシを慕った猿たちが、食べ物を差し出したというのである。
 つまり、佐竹ヒデヨシは、猿に食べ物を恵んでもらった、ということになっているのですね。伝承には食べ物を恵んでもらったとしか書いてありませんが、きっと、酒も焚き火も温泉もあったのではないかしら、と思うわけです。

 焚き火を前に「…猿に何言ってもわからない」とつぶやく缶コーヒーのCMがありましたが、佐竹ヒデヨシは、話せる猿と杯を酌み交わしつつ、1180年の冬を耐え忍んだのでありま~す。
 
 しかしこの伝承、たぶん、食べ物を恵んでくれたのは猿ではないと思われます。そう、村人です。どう考えても、村人。が、下手に敗軍の将をかばい立てなどしたら、村人も罪に問われてしまう。佐竹ヒデヨシは、それを考え、「猿に食べ物を恵んでもらったのじゃ」と語ったのではないでしょうか。それなら、万が一、頼朝軍に捕まっても、村人に罪は及ばず。


2013年10月28日月曜日

夢の噂は密やかに、都人の間を羽ばたく 重盛の夢、揚羽蝶の夢

 平家の家紋、揚羽蝶。蝶がさなぎから孵化する、その変容の力、再生能力にあやかったとされます。
 さらに、蝶といえば、現実と幻、あの世とこの世を行き来する力を持った生き物。現世の栄華だけでなく、極楽往生を願った清盛には、いかにもふさわしい紋のように思えます。
 
 さなぎは眠っているのでしょうか。眠りながら夢をみているのでしょうか。たしかに、さなぎから抜け出る蝶は、目覚めたかのようです。が、羽を持って飛び回る蝶もまた、まるで夢の中を飛び回っているように見えるのです。
 
 さて、夢の話をしましょう。平重盛が病を得た頃、都人たちの間に、ある噂が囁かれるようになったといいます。それは、重盛の夢の話です。
「伊豆の明神に詣でたところ、門の脇に生々しい坊主首がさらされているので誰の首かと訊ねると、あれは前の太政入道殿(清盛)の御首にて候、と僧が答えた」
 しかもそのような恐ろしげな夢を、重盛だけでなく、同じ夜に、家臣の妹尾兼康もみた、というのです。重盛が生きていた間のことですから、当然、清盛もまだ存命です。
 
 これは、「2人同夢」です。2人同夢は、古くから、神仏の告げる夢であり、正夢となると信じられていました。夢は、本来、プライベートなもの。しかし、2人以上の人が同じ夢をみるとしたら、それは神仏からの公式発表であると考えられました。公式発表だからこそ、ひとりだけではなく、2人以上の人がみることができるというわけです。

「恐ろしい話ではないか、小松殿(重盛)と家臣が同じ夢をみたそうな、その夢というのが…」と都人たちが囁きあったというわけなのですが…。
 しかし、考えてもみてください。もしも重盛が本当にそんな夢をみてしまったとしたら、隠すと思いませんか? まあ、家臣と陰陽師には打ち明けるでしょうか。陰陽師は職務上の守秘義務があるので、どう考えても漏れるわけなどないのですが…。

 と考えてみると、これは人々の願望として生み出された噂話だったと考えるのが自然です。実際に重盛がそのような夢をみたわけではないのでしょう。誰が言い出したのかはわかりませんが、そうなってくれたらいいなあ、という民衆の願いが、夢の噂になって流布していったのです。
 「2人同夢」は叶う、と、人々が信じたことにより、それは、さらに実現に向かいやすくなったのではないでしょうか。つまり、これは都人たちが、夢の噂で世の中を操作しようとした一種の呪術なのかも知れない、という気がします。ドリカム平家物語バージョン。

※ 参考文献「新・平家物語2」


2013年10月19日土曜日

朝日将軍、義仲、日蝕(エクリプス)に倒れる

 歴史が動く時というのは、いきなりらしい。旧暦八月十七日、三島大社の大祭からわずか二十日後、旧暦九月七日、木曽義仲旗揚げ。

 木曽義仲は、平家物語の中ではさんざんに書かれていますが…。
 子供の頃から狼を一人で退治する剛の者、都からやってきた僧に学問を習い、地元の有力者の後ろ盾もいるという、かなり毛並みの良い人物なのです。四天王と呼ばれた配下と巴御前を従え、鬼神のごとく暴れまくったサムライヒーローであることは間違いありません。

 (吉川英治「新・平家物語」では、正妻の巴御前の他に、葵御前という美女も登場します。2人が義仲を愛し、女武者として命をかけて戦うという、男なら鼻血が出そうなストーリーになっているのです。はぁあ~。私は読んでいて、ため息が出ます。)

 さて、1183年七月、平家を都から追い出したのは義仲です。義仲は、京に入り、朝日将軍と自らを称しました。
 そんな素晴らしい義仲が、なぜ敗れたのか。その原因は幾つかありますが、まず、コンプレックスがなかったことだろうと私は思います。倶利伽羅峠に勝利し、それこそ破竹の勢い。自信満々で政治にばんばん口出し、後白河法皇に、ウザイ、と嫌われたのです。
 
 そしてもうひとつの要因は、日蝕(エクリプス)。時は閏十月朔(1183年、11月24日)、水島の合戦。(瀬戸内海、現在の倉敷市付近)。
 合戦の最中に、金環日蝕が起こったのです。源氏方は大混乱。義仲は朝日将軍、太陽の申し子、いわばアポロンです。そのアポロンの戦いで、あろうことか太陽が欠けるなんて! 
 
 が、平家方は、この日蝕をあらかじめ知っていたといいます。なぜなら昔から蝕の予言は、政治的に重要だったからです。蝕が起こると、御所の行事はすべて中止なのでございま~す。
 暦の計算は、陰陽師の仕事。陰陽師は御所に仕えています。都の貴族たちは、占いを気にし、毎朝起きると、すぐに暦を見たといいます。凶方角があれば、方違えをしなくてはなりません。お日柄によって、やるべきこと、やってはいけないことなどもあり、ほんに忙しいことよのう。オホホホッ!
 暦を使っていれば、日蝕が朔(新月)に起こることぐらいも、まあ知っているのでしょう。逆に、日蝕が起こる可能性を知っていて、戦いを仕掛けたのではないかという推測さえも成り立つのです。
 
 しかし、義仲は暦など気にもしていなかったようです。興味があるのは、月の巡り。闇夜になれば闇討ちを、満月の晩には夜中の行軍も可能、といったあたりでしょうか。あとは、戦いの勝敗は天気で決まるので、風や雲を読むことは重視していたようですが・・・。
 暦占などはまったく信じてはいなかったはずです。が、その義仲が欠けていく太陽に驚き、源氏の軍勢は、士気を失って総崩れになるのです。

※ 2012年の日蝕です。日蝕ラインは、東京、箱根、駿河。江戸が築き上げてきた日本文化のサイクルにおけるひとつの終焉を意味するものかも知れません。

妖怪は闇の中より生まれ出る、鵺(ぬえ)の鳴く夜は、源三位頼政の物語

 以仁王のクーデターの話となれば、源三位頼政です。

 帝のおかげんが悪くなり、魔物に憑かれているのではないか、ということになります。頼政が御所を警備していると、丑寅の方角から黒雲がわきおこり、その中から魔物登場!
 顔が猿、胴体が狸、手足が虎、尾が蛇というキマイラ、鵺(ぬえ)です。そして頼政の放った矢により、鵺は退治されるという筋書き。
 が、つまり、この鵺ってムササビではないでしょうかね。ムササビは、木の洞に巣を作りますが、屋根裏などに住み着くこともあるのです。
 
 知人の喫茶店の庭にムササビの住んでいる木があります。昼間は寝ていますからまったく出てきません。日没30分後ぐらいに滑空を開始するというので、見に行きました。暗闇の中で、目が2つ、赤く光っていましたが、暗くなっていたので、滑空の姿は撮れませんでした。
 夜、木立の間をばさばさっ、と飛ぶ音が聞こえることもあり、まあ、それはそれで不気味ではあるのですが、狼や熊のように人を襲うというわけではありません。
 
 一般に鵺の鳴き声、と言われているものは、とらつぐみという鳥です。深夜、ピー、という笛の音が響くように聞こえてきます。ピー、… ピー、… ピー、…。音色の異なる2羽の鳥が、鳴き交わしているので、交互に、異なる方向から音が聞こえてくるのです。鳥ですから、音はしだいに移動していきますし、山の中では音が木に反射して、どちらから聞こえてくるのか、よくわからなくなってきます。だから、音を追って行くうちに山中深く入り込んでしまうといいます。

 姿がキマイラ、どこで鳴いているのかわからない。となれば、これはまさに夜の闇が生み出した怪物でしょう。
 ただし、それは、山中の闇ではありません。都に渦巻いている怨念の闇です。歴代、帝や貴族たちの不安が、得体の知れない妖怪を生み出してしまったということでしょう。
 
 吉川英治「新・平家物語」では、「源氏でありながら、平家方についている自分(頼政)も鵺のような存在である」と、頼政自身に、自嘲気味に語らせているのですが、都人として、武士としての宿命ゆえに、鵺を退治しなくてはならなかった頼政の立場というものもあります。
 
 能の「鵺」は、源三位頼政に退治された鵺が化けて出る筋書きです。鵺からしてみれば、「源三位頼政という武士に殺された、やれ口惜しや」というところでしょう。人々は、退治した鵺の祟りを恐れ、体を切り刻んで笹船に乗せて流した後、鵺塚を建てたといいます。

※ ムササビの住んでいる木。昼間なので、何も見えませんが、中に住んでいるのです。


2013年10月18日金曜日

北条時政、江ノ島で龍女(リリス)と出会う。あたかも浦島太郎のごとし

 最近、パキスタンの沖合いに、地震島があらわれたといいます。地殻変動が激しい場所では、このようなことがよく起こります。江ノ島も、かつて、海中から隆起してあらわれた島なのです。
 突然、海上に島が姿をあらわせば、これまで海の底には、このような場所(聖域)があったのだろう、ということになります。海中の小島は、まるで城のようにも見えるでしょう。江ノ島を眺めていると、なるほど竜宮城伝説はそのようにして生まれたのだろう、とロマンをかきたてられます。

 江ノ島は、島全体が聖域でした。古くは役小角がここで修行したという伝説もあります。

 平安時代には、夢籠が盛んになりました。これは、聖域に籠もって、神仏のお告げを聞くことです。で、北条時政です。北条政子の父。時政は若い頃、江ノ島に夢籠したという話が伝わっています。
 何夜かを過ごし(たぶん、念仏を詠んだり、瞑想したりしながら)、、満願の夜に大蛇(龍女)があらわれたといいます。つまりは夢の中にその姿を拝んだのでしょう。そして大蛇は子孫繁栄を約束するのですが、もしも人の道に外れることをしたなら繁栄はたちどころに終わるであろうと告げて、姿を消します。大蛇が去った後に鱗が3枚残っていたことから、北条の家紋をミツウロコに改めたということです。

 実態としての龍女があらわれたというわけではないでしょう。龍女は乙姫様であり、つまりは夢魔です。リリスは、上半身女性、下半身蛇。大蛇の化身として旧約聖書の異本に登場しています。

 竜宮城にいた3年間に地上で七百年がたっていたとか、3日間いただけなのに地上では何十年も時が過ぎていたとか、時間軸が異なっているのですが、これはたぶん、数日間、聖域(江ノ島)に籠もっているうちに、潮の満ち干によって、何回も砂州があらわれたことを意味しているのかも知れません。
 つまり、もともと、聖域での時間の流れ方は、異なっている、「非時」という了解の上です。
 島に渡れるのは、潮が引いて砂洲があらわれた時だけですが、新月満月前後には、1日2回、砂洲があらわれます。砂洲があらわれる周期を、特殊な時間単位になぞらえていたのではないか、とも考えられるのです。
 
 さて、昔の江ノ島には、橋は架かっていませんでした。砂洲があらわれた時だけ、島に渡ることができた、特別な聖域だったのですから。しかし、現代の江ノ島には、橋が架かってしまいました。そして他と同じ時間が流れるようになったのです。だから、現代人が江ノ島で、時を超える夢を見ることはもうないのでしょう。

※ 写真は江之浦近くの根府川から海上の虹を写す



君よ知るや都の蜜柑、帰化人から都人へ、都人から地方へと蜜柑は広まった

 伊豆、神奈川は蜜柑の産地。私、個人的に伊豆、神奈川の蜜柑が贔屓なのです。しかも湯河原は石澤商店、蜜柑はもちろん、レモン、オレンジ各種、柚子、橙…。さまざまな柑橘類が揃っているお店です。

 なぜ伊豆、神奈川で蜜柑がたくさん栽培されているのか。まず気候があっていたということ。暖かく日当たりが良い。でもそれだけではなく、古来から都との行き来が盛んだったからでしょう。つまり、古くから蜜柑の種が持ち込まれたということです。

 相模国の産物として、橘の実があったと古文献に記されています。神奈川には橘という地名があるのです。1号線、西湘バイパス橘インター。これがヤマトタチバナだとしても、もともとは西のほうにしかなかったものなので、あきらかに都を経由して持ち込まれたはずです。
 万葉人はおおらかなので、言葉がアバウトです。橘といっても、それは柚子や蜜柑、つまり橘の仲間がすべて含まれていたに違いありません。
 
 柑橘は南の産物ですが、では北限はどこか。一般には神奈川山北町あたりですが、しかし、私は、もっと北限を知っています。
 それは筑波山の麓。なぜ筑波山の麓で蜜柑が…といえば、筑波山の麓は古来より、都との行き来が盛んだった土地なのです。都から持ち込まれ、大切に栽培されていたのでしょう。商業用として出荷できるほどは採れないけれど、言い伝えを細々と守るように、観光農園がぽつんとあったと記憶しています。
 
 温州蜜柑は、三国志では曹操の好物として登場し、左慈仙人が、蜜柑の中身を消して皮だけにしてしまった、というあのエピソードで有名。貴重な果物として、帰化人によって日本へと渡ってきたと考えられます。

 ところで、666年に、高麗国使節としてやってきた高麗王若光(こまのこきし じゃっこう)は、祖国が新羅によって滅ぼされたため、帰国の機会を失い、帰化人となります。
 大磯海岸に船をつけて相模に入ったという説があり、大磯海岸は、かつて「もろこしが原」と呼ばれていたといいます。となると、蜜柑は、高麗国の使節によって、大量に持ち込まれたのではないだろうか、などという想像も浮かんでくるわけです。


 北条記には、伊豆山権現(走湯山)の由緒についてこう記されています。「高麗国より、神功皇后の御船に召されてやってきた(帰化人が)相模国の高麗寺山に入り、その後、仙人が走湯山へ参詣し、移居」。これは、修験道に帰化人の影響があったということです。そして、伊豆権現は、北条家、源頼朝との縁も深い場所です。頼朝の旗揚げの時、北条政子は伊豆権現に身を寄せていました。
 
 頼朝が真鶴から船を出したのは旧八月の終り。そして安房の国についたのが旧九月初。伊豆では極早生の蜜柑が実り始めた頃、海が見える丘に、蜜柑の香りが漂い始めていたのでしょう。

※ 陽光の剣、高麗王若光物語はぜひ読んでみたいと思います。


非時香菓(ひじのかぐのみ)は、この世の欝を、時を忘れさせる黄金の果実

 伊豆近辺は蜜柑の産地。伊豆の海、ふりそそぐ太陽の陽射しを浴びながら輝くオレンジ、レモン。思わず、「オーソレミーオー、今夜はイタリア~ン」と歌っちゃおうかな!
 
 オレンジ、レモンは、蜜柑、柚子と同じように中国原産で、その種子が鳥に運ばれて、地中海にまで広がったのだという。
 日本原産の柑橘類としては橘(ヤマトタチバナ)と辞典には書かれている。日本原産とはいうけれど、これは常世の国から持ち帰った霊薬「非時香菓(ひじのかぐのみ)」という伝説があるから、たぶん、南の地から渡ってきたものなのではないだろうか。それにしても、非時(ひじ)とはどういう意味なのだろう。
 
 さて、私は、極早生の蜜柑が大好物なのですよ。10月に入ると、スタンバイ。いつ極早生が実るか。それは年によって異なるので、天気を見ながら蜜柑園に電話をし、今日か明日かと、待ち続ける日々。
 極早生の、皮が緑色の、朝採り。ああ~、蜜柑はこれに限る! しかもそれは極早生が出てから1週間という期間限定。なぜなら、すぐに黄色く色づいてしまうから。
 酸味たっぷりのその味も素晴らしいが、魅力の本質は緑色の皮。緑色の皮を剥く時、皮からアロマオイルがしゅっと噴出。その香り! 皮に鼻を押し付けて、私はうっとりと酔いしれる。この香りは、採ってから2~3日ぐらいでなくなってしまうので、遠方から運んできた極早生蜜柑では望むべくもない。そしてなんと、この香りには、欝を吹き飛ばす効能があると言い伝えられているのですよ。

 アールグレイの香り付けに使用するベルガモットはカナリア諸島に自生していた柑橘類である。それをコロンブスが地中海に伝えたという。(ただし、自生といっても、その源はやはり中国の蜜柑なのだそうである。おそらく、鳥によって種子が運ばれたに違いなく。)
 ベルガモットは、緑色の固い柑橘で、実を食べることはほとんどない。その皮の香りが貴重なのだという。柑橘の香り、欝を忘れさせる香り。

 カナリア諸島は大西洋に浮かぶ7つの島で、ヘスペリデスのモデルになった場所と言い伝えられている。ヘスペリデスはギリシャ神話に登場する楽園で、黄金のりんごが実る場所。ということは…黄金のりんごとはベルガモットの果実だったに違いない。え?林檎の正体は蜜柑だった?という、これもまたややこしいお話なのですが。

 ベルガモットの香りが立ち込める島、それはまさに地上の楽園。この世の欝を忘れさせる香りが立ち込めている場所なのだから。欝を忘れる、それは、わずらわしい日常、現世を忘れるということなのだろう。
 橘の花の香りをかいで昔の人の袖の香りを思い出すという歌がある。柑橘の花は、甘やかな過去へと心を引き戻す。そして実の香りは、未来への不安を消し去るということなのだろう、きっと。
 
 ところで、カナリア諸島といえば…そう、この島に生息していたフィンチが、カナリアと名付けられて、愛玩鳥として世界中に広まったのです。ベルガモットの香りの中でさえずっていた小鳥たちです。


2013年10月17日木曜日

二十八日の闇夜、昇るオリオン、源氏星と平家星を眺めながら海へ

 源氏の歴史を紐解くには、「吾妻鏡」と「平家物語」が基本です。海外留学生の知人から、「平家物語」って中身は源氏物語だったんだねえ、などと言われたことがありますが、私もそう思いましたよ。
 
 吉川英治氏の「新・平家物語」は、女性の描写が素晴らしい作品です。政子の色香を椿の花にたとえるあたり。政子が頼朝と出会った時、21才。(さらに今風に書けば、恋人いない歴21年)。唇の赤さを椿の花にたとえれば、当然、豊かな黒髪と椿油の香りまでもが連想されるでしょう。
 …と、大好きな「新・平家物語」ですが、全体の印象としては、修験者(山伏)の出番が少ないように思われます。もちろん、文芸作品ですから史実重視ではないでしょうけれど。
 
 「新・平家物語」では、頼朝が石橋山の敗走後、真鶴からの船出は明け方として描かれています。早朝、湯河原の街中を抜けて真鶴の海岸に向かい、なんとそこには政子が見送りに来ていた、という感動的な演出です。それはそれで素敵なストーリーとしても、やはり私は、真鶴からの船出は夜のうちだったのではないか、と思うわけです。
 
 なにせ月のない夜なのです。逃げるなら闇夜に紛れてでしょう。仮に発見されても、なんとかなります。だいたい、鎧を脱ぎ捨てての逃亡はできないのです。鎧を着けていれば、もうそれだけで「落武者ばればれ」状態。それこそ、お天道様の下は歩けません。
 漁師の小船に乗って逃げるといっても、海上で発見される恐れはあり、そうなったら、船の性能を考えた場合、逃げ切りは無理。

 ・・・などと、湯河原は青木精肉店の揚げたてコロッケを食べながら海を眺め、う~ん、と私は腕組みしましたよ。で、その結果、やはりどうしても、闇夜に紛れてだろうな、と思ったのです。
 
 「新・平家物語」では、頼朝が湯河原山中で鳥や木の実を食べて逃亡していたということになっていますが、土肥実平の屋敷から女中が食べ物を届けたという話は、前回書いたとおりです。

 深夜、真鶴海岸までは山伏が付き添い、真夜中のうちに海上に出てしまう、これがもっとも安全なルートに思えるのです。暗い海の上に輝くオリオン、まさに源氏星、平家星を見つけて船を漕ぎ出す。私の頭の中では、そんな想像が駆け巡っているのです。
 
※ 写真はしとどの里の参道口近くにある看板です。



2013年10月15日火曜日

二十六日の月は東の空に、安房の国に新たな夜明けへの期待を込めて

 源頼朝の挙兵に応じ、援軍に駆けつけた三浦一族ですが、大雨で酒匂川が増水し、渡れなかったため、石橋山の合戦に参加できなかったとあります。
  三島大社の大祭のすぐ後に、台風がやってきたのでしょう。頼朝軍敗走の知らせを聞いて、衣笠城に引き返します。

 八月二十六日、79歳の三浦義明はわずかの兵と共に篭城して戦うのです。(三浦義明の娘は、源義朝の側室。一説には悪源太、義平の母。)
 戦いのさなか、三浦勢はひそかに海上に逃れます。闇夜の中です。二十六日の月は、明け方近くになってようやく昇ります。落城の炎を背に、昇り始めた細い月の方向にあるのは安房の国。
 
 頼朝が潜んでいたしとどの里からは、炎上する衣笠城が遠くに見えたでしょう。
 
 私、衣笠にしばらく住んでいたことがあります。その家は山の中腹に建っていました。衣笠インターのすぐ側です。そこからは、衣笠城があったという小高い山がよく見えました。衣笠城は典型的な山城です。急な斜面を昇っていくと、昔衣笠城があったという跡には、石碑が建っているだけ。城跡の裏は崖になっていて、岩や瓦礫がごろごろしています。
 城山に登る途中にある寺の看板に、衣笠城落城のいきさつが、ちょっとだけ記されていた記憶があります。山の頂上まで登って行くと、茂った木の間から、富士山や箱根の山を眺めることもできました。

※ 写真は9月半ば、しとどの里への参道で撮影

石仏に心宿るなどあるわけもなし、わかりきったことなれど、
伏したる半眼に映りし世の姿を、それでも問うてみたいと願う我あり


巌谷に滴る水は滾々と、山肌を伝って大河の源となる

 「土肥大椙」の碑は、道沿いに建っていますが、大杉は山中にありました。 
 それもかなり険しい山道で、足を滑らせたら谷底に滑落。なので、ここに行く時には、足元しっかりと固めてください。滑落した時の通信手段として、3G回線端末必携です。なぜなら、WiFiスポットはありませんので。そして、一人では行かないように。しかし、甲冑付けてこの斜面を逃げ延びるってのは・・・。
 
 大杉の洞に隠れた源頼朝ですが、そこからさらに下の岩屋へ。しとどの里と呼ばれる場所です。しとど…どういう意味なのかはわかりません。が、なんとなく、しとしと、水が滴っている岩屋だからなのか、と思うようなネーミングです。
 箱根の山に降った雨が染み出しているのです。水滴が集まって流れを作ります。まさにここは水の源流、源の地なのです。
 
 今では、しとどの里まで降りていく参道が作られているのですが、それでもかなり険しい。参道の降り口に、木の枝がたくさん並べてあります。杖代わりの木の枝です。つまり、杖を突いて降りたほうがいいぐらい険しいのです。
 
 しとどの里から下へ降りるとそこが湯河原の町。今でも登山道はいちおうあります。あることはあるのですが・・・。倒木だらけのあの細い道を行き来するのは、常人ではまず無理だと思われました。
 岩屋に隠れている頼朝一行のために、湯河原の土肥実平の屋敷からは女中が密かに食事を運んでいたといいます。それも、敵方の目につかないように、夜になってから。いのししも熊も、もしかしたら日本狼もいた時代ですよ・・・。

 湯河原、伊豆、箱根は、古来より山伏の修行場だったといいます。源氏勢力は、山伏たちを味方につけていたのでしょう。だから源頼朝は湯河原山中に逃れたのです。

※ しとどの里、岩屋に向かう途中

君をかくまいし大杉の 梢に渡る風の音を聞きたし 
千歳の時空を超えて聞きたしと願いつつ 天に向かいて耳澄ます



イイクニ作ろう鎌倉幕府、え? それよりマイナス12年?

 イイクニ作ろう鎌倉幕府、1192年。覚えましたよね、昔。
 と思ったら、1185年から成立という説が有力なんですって? 教科書も書き換えるかも知れないんですって? 
 
 というわけで、サムライヒーローシリーズ、源頼朝編。.
 彼は、1147年、4月8日、名古屋市熱田区生まれ。母の由良御前は、熱田神宮の大宮司、藤原秀範の娘。
 平家と源氏との争いで源氏が敗北、首謀者の息子として処刑されるところを、伊豆に流罪。伊豆ではけっこう楽しく暮らしていたようなんです。伊東祐親の娘、八重姫と恋仲になるのですが、平家の怒りを恐れた伊東祐親によって、仲を裂かれます。
 その後、1178年頃から、北条政子とつきあっていたといいます。が、1180年、以仁王と源頼政のクーデターが失敗し、やばい雰囲気になってくるわけですね。このまま暢気に暮らしてはいられないかも~。
 
 そして挙兵は三島神社の大祭。八月十七日。祭りにつけこんで挙兵しようという作戦は、歴史的にみても古くからありました。
 しかし、旗色悪く、八月二十四日、湯河原の椙山に逃走。この日付は旧暦ですが、太陽暦ではだいたい、9月半ばぐらいだったといいます。残暑厳しき頃。湯河原山中は馬では入れませんので、馬を乗り捨て、甲冑を着けて、急斜面を逃走! 
 馬って、平原を走るものなので、斜面は弱い。鹿に乗れれば、どんなにかいいでしょうね。鹿なら斜面に強いのに。しかし、鹿に乗るのは難しい。鹿島神宮の神様は鹿に乗って奈良まで行ったというのですが…。もしも鹿を乗りこなして家畜にしていたなら、日本の文化もいろいろと変わったでしょうに。と、ちょっと脱線。
 
 とにかく、頼朝軍わずか7騎、・・・って記載されていますけどね、馬を乗り捨てちゃったら騎とは数えないだろうって、ツッコミ入れたくなります、思わず。で、その7人、湯河原山中を敗走、大杉の大朽穴に隠れる。梶原景時、大朽穴の中に入り、頼朝と目を合わせるも「中には誰も居ない」と報告するのです。
 鎌倉幕府発祥の起源、「土肥大椙」ここに在り! 最後の最後まで諦めちゃいか~ん、というお話です。

 その大杉は、大正時代まであったそうですが、台風で倒れ、今は記念碑だけになっています。

 さて、教科書では鎌倉幕府は1185年から成立という説が有力になっていると書きましたが…。この碑では1180年、ここ湯河原山中が鎌倉幕府発祥の地であると記載されています。



2013年9月8日日曜日

羽持つものたちが宙を飛ぶ今宵、月の光に嫦娥を想う

 空飛ぶものたち、鳥、そして虫。人には翼がない、羽がない。だから空を飛べない。天使は翼で天へ舞い上がる。妖精たちは虫の羽を持って、幻想の夜を飛び回る。

 東洋では、羽衣を纏って飛ぶ天女の姿が一般的。翼や羽ではなく、天の羽衣を纏って、飛び回る。羽衣といっても、羽で作ってあるのではなく、材料は絹。そう、蛾の作った繭からとった、軽やかな絹。

 さて、絹織物といえば養蚕。蚕の原種は山繭蛾。マユガ。
 林の中を探してみると、時々、蛾が抜け出た後の繭が見つかることがある。古代の人々は、この繭をほどいて、糸にしたのですね。そして生まれたのが絹織物。
 山繭蛾の繭は、薄緑色。カイコの糸よりも太く、光沢がある。祖母が子供の頃、子供たちは茂みの中で山繭蛾の繭を集めて、お小遣い稼ぎをしていたと聞いた。今でも、山繭蛾の繭だけを集めて作った織物は高級品なのだそう。

 養蚕のカイコが日本に渡ってきたのは、はるか弥生時代のこと。それこそ、神話の時代に、大陸からやってきたカイコ。
 カイコは、脱皮のたびに、休眠する。一晩、ぴくりとも動かなくなって、それから脱皮。三眠、つまり3回脱皮して大きくなってから、繭を作って籠り、羽化する。カイコは成虫になると口が退化する。成虫になったら、もう食物は摂らず、卵を産んで死んでいく。繭を残して。

 大陸からカイコが渡ってきた時に、機織の技術も渡ってきた。大陸からはさまざまな文化が入ってきたが、その後、徐福の子孫が日本に渡ってきて、秦氏を名乗ったという。彼らは、優れた機織の技術も持ってきたのだろう。秦、それが機織に結びついているのかも知れない。

  嫦娥は、仙薬を飲んで月に昇り、月の女神になったという。その仙薬とは、どのような薬だったのだろうか。嫦娥が、天の羽衣もまとわずに、月に昇ることができたのはなぜなのか。もしかしたら羽衣とは、繭そのものを意味しているのではないだろうか。嫦娥は、繭を作り、そして蛾になって羽を持ち、天をめざしたのではないだろうか。

 たぶん、嫦娥と、蚕信仰もどこかで結びついている。そしてそれが、かぐや姫のルーツであると私は思う。旧暦八月十五日、満月の夜に、月へ帰っていったかぐや姫とは、もしかしたら、嫦娥その人ではなかったのか。

 月にかかった雲が、まるで繭のように光を包む。月の光は無数の糸となって、地上と天空を結ぶ。